子どもたちが必ず傷つくことを話し合わせることへの違和感

皆さん、これってどう思う!!??

って話なんだけど!!...

友人の小6のお子さんが修学旅行に行った時の話です。

その時に班みたいなものを作るらしいんですが、
先生か学校かの方針で

「もう話し合える年齢だから、
子どもたち同士で話し合って"部屋分け"を決めてください」

って話し合うようなんです。


でも、

実は、こういったグループ分けは
過去に何回かやっていて、

毎回、めちゃくちゃ揉めて、

毎回、心がズタズタにされるお子さんがいるんだそうですが、
学校は一向にその方針を変えようとしないと......。

なぜ......?

僕からすると、ちょっと理解が難しい。


で、その部屋分けの『かいぎ』は、

学校内でコロナが流行っていたこともあり、
友人のお子さんはオンラインで参加していて、

友人は「話し合い」の様子を見れたそうなんです。


一言で言うと......、

本当にひどい状況だったようです。

一時間、揉めに揉めて、
言い争いにもなった結果、
案の定、

【一人の女の子が誰の仲間にも入れてもらえないという事態に】

なりました。

これだけでも、僕からすると、
一生、残るような傷だと思うんですよね。

「誰からも私は求められてない」

って最悪じゃないですか。

そこで先生はどうしたかと言うと、

「この子を入れてあげてくれないか?」

とそれぞれの班に打診をしたそうなんですよね。

もし、もし、その子のその後の人生がめちゃめちゃうまくいけば、
何十年後に「あんなこともあったんだよね」って笑い話にもなるかもしれないけれど、

これって、当事者の女の子にとっては人生で最低な出来事なはず。

かわいそうなことに、その子は断られ続け、

最後に打診した班は、
一部の子が「いいよ」と受け入れたものの、
別の子が

「私は無理!」

ときっぱり拒否 (!)。

しかも、その断られた子は、その様子を見ているんです。

当たり前だけど、その後、その子はギャン泣き。

皆さん、これって......、どう思います???

『こどもかいぎ』なんて映画を作ってる位だから、
子どもたち同士の対話は大事だと思ってるんだけど、

僕はね、

「話し合わせるテーマが違う」

んじゃないかと思うんですよね。

日常の事だったり、
社会の事だったり、
修学旅行の「行き先」であったり、
幸せについてだったり、

他に対話できるような事はいくらでもあるはず。

ここまで子どもたちの心が傷つくような事柄を対話させるのは、
「話し合わせる」っていう意味を履き違えているように

僕は思う。

その子にも何か理由はあるかもしれないけど、
そういう子がいるのであれば、

大人が介入してうまくコミュニケーションできるように
してあげるべきなんじゃないかなと思うし、

「こういう体験も糧になる」って思っているとしたら、
それは「いじめられた体験も将来の糧になる」って言っているのと

ほぼ同じように思います。

現在の「いじめの定義」は

「一定の人間関係のある者から、

心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、

精神的な苦痛を感じているもの」

という法律になっているので
(これ知らない人多いんですが)、

これって立派な「いじめ」にもなりうるんじゃないでしょうか。

娘も言ってたけど、
こういうメンバー決めは、
いつも必ず、誰かが傷ついて終わるので、

むしろ、先生が無作為に決めちゃった方が良いし、
こういう心が傷つくような出来事を決めるべきではないのでは?、

と個人的には思います。

友人は見かねて、
外されてしまった子の親御さんに、連絡したそうですが、

やっぱり、親御さんにはこの出来事は伝わっていなかった。

このくらいの年になると、
恥ずかしくて親に言えないと思うんですよ。

その後、親御さんは
じっくり、お子さんから話を聞いたそうなので、
ほんの少しでも、そのお子さんの気持ちが晴れているといいんだけど......。

「たかが班決め」から、いつか最悪の事態にならないことを心から願っています。

皆さんはどう思いますか?
皆さんの意見を聞かせてください!


監督・父
豪田トモ


★映画『こどもかいぎ』は全国の自主上映会で開催中!!
https://www.umareru.jp/everycinema/kodomokaigi-everycinema.html

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