うまれる ずっと、いっしょ。|映画『うまれる』

  • ブログ
  • メルマガ
  • 掲載メディア
  • 監督・豪田トモ
  • 講演会
  • 商品
  • 体験談
  • プロダクションノート
  • サポーター
  • ボランティア
  • 私たちの夢
  • 『うまれる』シリーズとは?
  • よくある質問
  • お問い合わせ
  • ENGLISH
うまれる ずっと、いっしょ。

流産・死産の体験談 の全体験談

体験を投稿

たった1か月でしたが、お母さんでした。

来月、入籍します。彼とは授かり婚でした。
ですがもう、おなかに赤ちゃんはいません。

結婚しようね、って話しながらも具体的なことに進まない中、
私の妊娠が彼の背中を強く押し、プロポーズをしてくれました。

初めて避妊しなかった日、
「もしこの日に出来たら秋産まれだからあきこだね」
なんて笑って話してた矢先、

妊娠検査薬で薄い陽性反応が出て、
彼は、「あきこからの初めての手紙!」と喜び、
毎日毎日おなかに話しかけて、毎日日記を書いて、
まだ目には見えませんでしたが3人暮らしでした。

初めて心臓の音が確認出来た日、想像していた以上に大きな鼓動にびっくりしました。
その5日後、不正出血で心配になり、健診を早めて受診。
相変わらず元気な鼓動に安心して、嬉しくて、診察台のカーテンの向こうで、ばれないように泣いちゃいました。

その日の夜、今まで体験したことのない痛みと、明らかに異常な大量出血が起こりました。
頭では覚悟していましたが、心のどこかで、「大丈夫大丈夫」と言い聞かせ、
次の日笑顔で再度健診に行きました。

エコーを見た時、一瞬で分かりました。
本当に何もなくなってました。真っ暗でした。

彼の車に乗って、いなくなったことを伝えて、2人で泣きました。
毎日泣きました。それでも仕事に行って、夜は二人で泣いて、その繰り返しでした。

妹から「あきこちゃん、忘れ物しただけだから、すぐ戻ってくるよ」

と言われ、何かが吹っきれて、今では2人笑顔で過ごせています。

あきこは、彼に結婚の勇気を与え、おまけに、「手術が要らないように自分から出てきてくれたなんて、なんて親孝行なんだ。僕らに似て優しい子だったんだねえ」と親バカにまでしてくれました。

2022.03.11 投稿者:りっちゃん/石川県

昨日の夜、自然流産となりました。

7週目で心拍確認を終えたあとでした。

夫と結婚して1年半で出来た待望の赤ちゃんでした。
仮の名前でピーちゃんと付けて、生まれた時の名前をどうするか、
赤ちゃんのお洋服はどんなのを買うか、ワクワクしておりました。

定期検診の1週間前に茶おりが始まり、2日前には鮮血に変わりました。
慌てて病院に向かうと、ピーちゃんの心拍は大人程ゆっくりになっていました。
1週間前まではピコピコしてたのに、その日は心臓を拡大しないと動いてるかどうかも分からないくらいでした。

難しいです。と先生に言われた時涙が止まりませんでした。

その日の夜に生理痛より痛い腹痛が始まり、
出血と共に大きな塊が出てきました。
透明の羊水に囲まれ、小さく黒い目が2つていてる、ほんの1cm程のピーちゃんでした。

大きくしてあげたかったと思います。
色々と体験させてあげたかったです。
妹と母からプレゼントしてもらった黒い子供用ブーツでお出かけしたかったです。
夫に抱っこさせてあげたかったです。

しばらくして落ち着いたらまた次の妊娠に向け頑張ろうと思っています。

でも、ピーちゃんのことはきっと死ぬ時まで忘れないと思います。

私にとってはいつまでも大切な第1子です。

2021.02.19 投稿者:岐阜県

先日娘を38週で死産しました。

今日が出産予定日です。どうしても何かに娘のことを残したく投稿させていただきます。

私は2013年に息子を出産しました。
結婚してすぐの事で妊娠に気づいたのは4ヶ月後半。

なぜこんなに遅かったかというと、
結婚後すぐ検査した時に妊娠しにくい体と診断されてたからです。

私は不妊症じゃなかったのか!と思ったのもつかの間
2人目を考えだしましたが、なかなか授からず不妊治療を開始しました。

やっと妊娠したと思えば、8週で心拍を確認できず流産。
それから2年後、妊娠しましたが心拍確認後10週で流産。

自分はもう赤ちゃんを産めないのか。。と思ってましたが、
それから1年半後に不妊治療に特化した産婦人科に変えるとすぐに妊娠。

初期に少し出血しましたが、つわりも軽く問題もなくすくすく成長。
ただ息子を37週で出産していたので、心配な事と言えば早産くらいでした。

息子もやっとできる兄妹がとても嬉しかったようで、
「無理しないでね」「会いたいけど、もう少しお腹にいてね」
とよくお腹をなでてくれました。

仕事も産休に入った頃からよく口の端がきれる口角炎になりました。
それから気持ち悪さや息がつまるような感覚が何度かありました。
医師に相談するときっと後期つわりでしょうとの事でした。

38週に入り、検診でNSTをして帰宅しようとした時
またどうしようもない気持ち悪さと息苦しさに襲われました。
手が痺れ、受付の人に症状を伝え30分ほど休みました。

特に誰かが診にくる様子もなかったので少し落ち着いたし帰ろうとしましたが、
やっぱり気持ち悪く車で30分ほど休み帰りました。

今思えばあの時再度先生に診てもらえばよかったと後悔しています。

それからお腹が痛みが何度かあり、
前駆陣痛かと思いドキドキしながら過ごしました。
ある夜、胎動がないことにハッとしました。

出産直前は胎動が減るっていうし。。
けどまさか!と思い、念のため深夜に急いで受診。
赤ちゃんの心拍は確認できませんでした。
それから促進剤を打って出産。お産はとてもスムーズでした。
生まれた瞬間、不思議なくらい窓に大量のツバメが飛んできた事一生忘れないと思います。

原因はおそらく胎盤が少し小さめだったこと、
赤ちゃんの体重が数週の割に軽かったことから
十分な血液が赤ちゃんに送られず心臓が止まったのではないかとの診断でした。

鉄が足りなかったら口角炎に、だから気持ち悪さと息苦しさがあったのか。
今はつい原因追求や後悔ばかりです。

そして息子になんて言ったらいいのか。。
やっと授かった命、妊娠中のこと、ただ寝ているような可愛い娘の顔、
思い出すとどうしようもない気持ちになります。

義両親が娘に何もしてやれない事が辛すぎると葬儀の段取りをしてくれました。
そこでお坊さんから。。
人は余命(余る命)を生きるのではなく、与命(与えられた命)を生ききる。
娘は38週生ききって命の重さを教えてくれた。悲しいけれど、今生きている命を大事に生ききりなさい。
泣きながらそう、話してくれました。

ずっと普通すぎて分かってるのかどうかと思ってた息子が
赤ちゃんとのお別れの時、わんわん泣きだしました。
手を合わせた息子が、赤ちゃんに愛してると伝えたそうです。

辛いけど、悲しいけど、赤ちゃんがお腹にいた全ての日私たちは幸せでした。
心からありがとう。大好きだよ。

2019.09.11 投稿者:滋賀県

わたしの場合、流産・死産ではなく、「新生児死」です。

生きて生まれ、戸籍にも名前の残っています。みなさんからしたら、死産と同じと思われるかと思います。

今の日本の発達した医療で、新生児死というのは、死産よりも少ないケースといえます。

おなかの中の子に異常が発見されたのは妊娠22週。法律で降ろすことができない週数です。

第二子となるおなかの赤ちゃんは、妊娠中期頃からやけに張り、フルで仕事をしながら2歳児の子を育ててという生活をしていた私は、かなりおなかの張りで辛く感じていました。

そんな時に、いつものように仕事の昼休みに妊婦健診に行った際、エコーを見る先生の顔が険しくなりました。

「赤ちゃんのおなかにお水がたまっています。胎児水腫と思われます」

性別も男の子とわかっており、第二子の誕生を楽しみにしていた矢先の突然の、胎児異常の通告。

その病気がどういうことなのかもわからず、また詳しく調べましょうという先生の言葉だけ聞き、仕事に戻りました。

携帯で「胎児水腫」と調べて出てくる言葉は、「死産・妊娠中に亡くなる・予後が悪い」悪い言葉しか見当たりませんでした。

おなかの中の赤ちゃんが、待ち遠しい愛しいわが子から「こんなによく動いているのに、もうすぐなくなってしまうかもしれない。思い病気を持って生まれてくるかもしれない」
楽しみにしていたわが子の誕生が、一気に地獄に突き落とされたのです。

それからというもの、病気のことを調べたり、SNSを見たりと、ネット検索魔となりました。

大学病院に移り、いろいろな検査をしながら、羊水も過多で日に日に大きくなるおなか、夕方になると座っているのも辛く、ひどい張りに悩まされ、眠れない日々。。
毎日泣きながら、「なんでこんなつらい思いをしなければならないのだろう。がんばっても報われないかもしらないのに・・・」弱気になって心身共につらい日々でした。

病気のことがわかっていたら、降ろしていました。主人と意見は一致しています。

命の重みについては、本当に考えさせられました。
何が、いい、悪いではないのです。夫婦できちんと話し合って決めることだと思います。

わたしには、「産む」という選択肢しかなかったのです。
怖い・不安しかなかったです・

でも、元気に力強くおなかの中で動くわが子。まぎれもなく、私の子。この子を産むのはわたししかいない。生きたいから、このタイミングで病気を知らせ、わたしたち夫婦に考えさせる時間を与えてくれたのだと。後になっては思います。

誕生のときは、陣痛からきました。35週と6日。小さ目だったので、もう少しおなかにいてほしい週数です。でも、生まれてから小児科の先生たちが準備してくれているので何とかなるはず。前駆陣痛かも?と思って念のために病院にいったら、陣痛が強くなってきて降りてきている感覚が。検診で、破水。NSTで胎児の心拍が弱ってきているのを確認して、あわただしく緊急帝王切開に。

普通分娩の予定でしたが、何があるかはわからないという覚悟はあったので、病院に来ているのだから大丈夫。あとは、先生たちにお任せするしかない。そういう思いでした。

下半身麻酔でオペがはじまり、30分ほどで赤ちゃんを取り出し縫合の予定との説明。麻酔をする前に、赤ちゃんがだいぶ降りてきて、いきみたい衝動に。でもオペが始まり、帝王切開になったので赤ちゃんがだいぶ降りてきていてなかなか取り出すことがなく、意識があるなか 先生方が必至で赤ちゃんをひっぱりだす感覚が。痛みはないものの手がしびれ震える感覚を必死で耐えていました。

赤ちゃんがでた!その感覚はありました。
でも先生方は何も言いません。
あわただしくしています。産声も聞こえません。

「あかちゃんは呼吸がうまくできません。小児科の先生たちで対応しています。おかあさんの出血が多く、オペに時間もかかるため全身麻酔に切り替えます」
その説明を受け、横に生まれたわが子を一瞬連れてこられ、動いていないわが子を横目で見て、わたしは麻酔で眠りました。

3時間にわたったオペが終わり、目覚めたわたしは「NICUに赤ちゃんがいます。いきましょう」担架で連れて行かれ、先生たちと主人に囲まれたあかちゃん。

「あかちゃんも、先生たちもがんばってくれた。。。もう、いいよね・・・」主人がそういったのはよく覚えています。

(あぁ、やっぱりダメだったんだ、、、)麻酔から覚めたばかりでぼーっとしているわたしは、そう思って「うん・・・」といい、たくさん取り付けられている管を外してもらい、首も腕もほとんどといっていいほど動かないわたしの腕の中に赤ちゃんを抱かせてもらいました。

小さいけど、目鼻立ちがしっかりしていてお兄ちゃんによく似ていて、とってもかわいいわが子。
産声をあげることすらできなかったけど、生きて、産まれてきたのです。

出生届と死亡届を一緒に役所に主人にいってもらい。
次男として誕生して、すぐに亡くなったわが子。

呼吸器の軌道に蓋がされており、外に出て肺呼吸になったときに自発呼吸ができなかったというめずらしい病気が原因でした。妊娠中でも発見することができず、この世では生きることができなかったわが子。

何のために、生まれてきたのか・・・
大切なことを教えるため、かわいい姿を見せるために、生まれてきてくれたのだな。
そう思っています。

普通分娩だったら、すぐにまた赤ちゃんをほしくなっていたことでしょう。
でも緊急帝王切開で、子宮の損傷も激しかったために、次の妊娠までは最低1年は開けるようにと言われています。

あかちゃんから、そんなすぐにあかちゃんを考えないで、体も休めてね。お兄ちゃんとの時間を大事にしてあげてね。
そういうメッセージがあるように感じます。

辛い経験をしたからこと、もっと人に寄り添える、そういう人間になろうと強く思いました。

2019.08.21 投稿者:東京都

後期流産のお話です。

長女(2013年生まれ)と次女(2016年生まれ)の間に起った出来事です。
多嚢胞性卵巣のため、不妊治療をずっと行っておりました。

2015年8月上旬、
主人と当時間もなく2歳になる娘と安定期(17W)入ってすぐの検診に行きました。

7月末に膨らんだお腹が少し小さくなった気がしたのですが、
気のせいで元気な姿が見られるだろうと思っていました。

しかしいつも明るい先生が無表情。

そして
「心臓がね、動いてない。計測値からみて、
亡くなってもう2週間程度経っているみたいだよ。」

と告知してくれました。

泣くこともできずに、でもなんとなくこうなることを予想していたのか、冷静に先生の話を聞きました。

「処置しないといけないんだけど・・」
と言われたところで、

長女の誕生日が近いので、先生の話を遮って
「〇〇(長女)の誕生日まで待ってください。」

あと数日まで迫った長女の誕生日を入院して過ごしたくない、
お腹の子も含めたみんなで長女の誕生日を祝ってやりたい、

今考えるとただのエゴだったのかもしれませんが、
これが最善の選択だと信じて。

処置は長女の誕生日翌日から始めることになりました。

診察室をでて、気が抜けたのかボロボロと涙が溢れて、
でもすぐに両親に知らせなくてはと電話して報告をしました。

その後、血液の検査の部屋に呼ばれ、
看護師さんがたくさん話を聞いてくれました。

その看護師さんの娘さんも流産を繰り返されていたようで、

「大丈夫よ。
今はね、とってもつらいだろうけど、また来てくれるからね。
そのときはきっと元気な姿見れるよ。
時間薬。
時間が解決してくれるから。
うちの娘もなんとか乗り越えてもうすぐ生まれるのよ。
あなたにもきっと同じような時間がくるからね。」

と話してくださいました。

それから帰りの車の中では、
主人と2人で泣きながら帰ったのを覚えています。

その後、長女の誕生日の翌日から処置が始まりました。
とても痛かったですが、どうにか耐え、その翌日に入院。

昼からLDRに通され、陣痛促進剤を投薬されました。

陣痛促進剤を入れてからしばらくし、私は寒気を覚え、
真夏なのに布団を持ってきてもらいました。

LDRは長女を生んだ時と同じお部屋で、
『長女の時は暑くてクーラーをガンガンにしてもらい、
先生が「寒っ。」と言ったな~あの時とは正反対だな。』と
熱に侵された頭で考えていました。

生まれるまで、本当に寒くて寒くて、
看護師さんがずっと手をさすってくださっていました。

そして夢うつつになっていた時に金色の光がみえて、
そのあと『宙(ヒロ)』という文字が浮かんできました。

私は無意識にお腹に
「あなたのお名前だけど、2つ候補があるの。選んでくれる?」
と呼び掛けていたので、
浮かんできたときにツルンという感覚があり、
目を開けると
先生と長女が生まれてきたときにおられた助産師さんがおられて、

「もう終わったよ。頑張ったね。」
と声をかけてくださいました。

8月14日午後3時40分 身長12センチ 体重30g 性別不明

亡くなってからずっとお腹の中に閉じ込めていたので、
とても小さくなっていました。

そして、ほかの人が見たら気持ち悪く思うかもしれない色でしたが、
とてもとてもかわいい我が子でした。

時間薬の話をしてくれた看護師さが来てくださり、

「かわいいね。
先生は性別不明って書いてたけど、
女の子に見えるね。」

と言ってくださり、
私も女の子に見えたので、性別がわかって嬉しかった記憶が
残っています。

でも触ると壊れてしまうかもしれないとのことで、
直接触ったり、服を着せることは叶いませんでした。

その後、火葬し、お骨をわずかですが持ち帰ることができ、
今でも、お家で一緒に過ごしています。

その当時は、とてもつらくて、
流産・死産の本やネットを調べていました。

何か理由があってのことだということでしたが、
その子の出産予定日の少し前に、主人の転勤が決まってしまいました。

転勤でバタバタするから『宙(ヒロ)』が身を引いたのかもしれません。

その後、転勤の引っ越しの日に妊娠がわかり、
無事にお腹の中で成長し生まれてきてくれ、10月に2歳になります。

長女も『宙』の話をたまにしてくれるようになり、
わかったことがあります。

『宙』は長女がお腹にいるときに一緒に遊んでいたこと。

実は長女を妊娠した時、
心拍が確認できた際にもう一つ胎嚢が見つかったのです。

その子である可能性があると思っています。
長女を授かったのは『うまれる』でも登場する施設です。

『宙』は名前通り(ヒロ:ハワイ語の結ぶの意味からきています)いろんな縁をつないでくれたようです。

これを書いていて涙が止まりませんでしたが、
前とは違う心持ちです。

「時間薬」のおかげかもしれません。

2018.08.27 投稿者:宙(ヒロ)ママ 香川県

私には5人の子供がいます。

2月、生理がはじまりましたが
そこから出血が止まらなくて。

止まった?いや、また…3週間続きました。

下腹部が痛く動けない日もありましたが、
仕事を休む事も育児を休む事もできないままでした。

流石におかしいと思い病院にいきました。

子宮外妊娠でした。
すでに卵管が破裂し、お腹ん中で出血やら腹水やらで転院しました。

そこの病院でいわれたのは、
やはり子宮外妊娠。

頭が真っ白で先生に言われた言葉が受け入れられず、子供が5人いるんだけど…今から?
今から手術?

パニくるってこうゆう事なんだと…しまいには先生に、

このままだとショック死しますよ、と言われ、

あたし死ぬの?でもこの子はどーなるの?産めないのとフリーズしました。

医療用語を言われ、頭がまわらないのにあーだこーだといわれ、私は先生につっかかってしまいました。

看護婦さんが間にはいってくれ、主人に連絡しました。

主人もきて話を聞いて、やはり今すぐ手術しないと死にますと言われました。

私は死にたくない、でもこの子は?
なかったことにするの?

とずっと不安で、でも先生は、
そんなこと聞いてくれません。

バタバタと検査だ、着替えだ点滴だと言われ、気付けば手術が終っていました。

退院し、主人と話しました。

私が助かったのは、この子のおかげなんだよね、私達が6人はない、産めないなんてばっかりゆうから、

この子は、違うとこにしがみついちゃったのかな…

私が最低な親だからこんなママのとこに産まれたくないって思われたのかなって泣きながら話しました。

5人が何も無く産まれてきてくれた事に感謝して、
産まれて来れなかった子を忘れないように子供達に話しました。

まだ分からない子もいました。

でも、長女は
「赤ちゃんに会いたかったなぁ…」と
泣いて話してくれました。

2018.03.17 投稿者:ルル アァ

2回目の稽留流産を体験しました。

自然排出を待つまでの期間は精神的には地獄です。
ただ、自然排出を終えた後は、
体に優しい方法で終えられたということで心地よく過ごせました。

稽留流産の前に2人の子供を妊娠・出産しています(2人目は帝王切開)
皆さんの参考になるよう、要点だけまとめます。

■手術か自然排出か
・日本では手術が多いが、欧米では自然排出が一般的
・私の場合特に、帝王切開しているので、手術してさらに子宮内膜が薄くなることは避けたいし、問い合わせた病院によっては「ハイリスク」と言われた。
・そういうわけで1回めの稽留流産、2回めの稽留流産共に自然排出を待つことにしました。

■仕事をしていたか
・1回めの稽留流産は育休中で仕事してませんでした。
・2回めの稽留流産は仕事していました。

■自然排出を促す方法
・「サイトテック」という海外では使われているが日本では一般的ではない薬があるとのこと
→神戸に1院だけあったが、自分は東京在住であり、また1回通院すれば良いというものではないらしいので、諦める。
・漢方(自然排出を促したい旨を相談すると、子宮内膜からいらないものを剥がすような漢方を処方してもらった)、鍼灸、鍼灸整骨治療院での下腹部マッサージ(かなり強め)、ジョギング、ゼラニウムオイル、仙骨カイロ、ヨガを日々実践。

■結果(日単位)
・1回めの稽留流産
流産確定  2016/1/12 10W0D
(その前の診察で「流産かも」と言われ、その次の診察が1/12でその時に確定)
漢方飲み始め 2016/1/13
ジョギング  2016/1/18頃から本格的に開始
治療院下腹部マッサージ 2016/1/24頃から2回程度実施
少しずつ出血が始まる  2016/1/28頃から
自然排出   2016/1/31(流産確定後、2週と5日後)

・2回めの稽留流産
流産確定 2017/10/23 10W0D
(その前の診察で「流産かも」と言われ、その次の診察が10/23でその時に確定)
漢方飲み始め 2017/10/25
ジョギング  2017/11/13頃から本格的に開始
治療院下腹部マッサージ 2017/11/6頃から週1回程度実施
少しずつ出血が始まる 2017/11/20
自然排出 2017/11/23(流産確定後、4週と2日後)

■自然排出の日の流れ
・1回めの稽留流産
夜中の2時頃痛みで目がさめ、その後生理痛の10倍くらい(私は生理痛が軽い方です)
の痛みで痛みが激しくなっていき、どちらかというと陣痛に近いような痛み。
痛みがひどく、病院からもしもの時用に処方されていた痛み止め(ロキソニン)を服用。
痛みに波があるが、4時間ほど続き、朝6時頃血の塊(2センチ)が出たため
自然排出したかと思い病院へ。
そうするとまだ出てきていなくて結局病院でもまだ痛みが続き、朝7時頃「スルっ」と塊が出てきた。これで完全に排出。
病院でその後見てもらい綺麗に排出されているため手術不要とのこと。

・2回めの稽留流産
家族でサイクリングした後、夕方5時頃に家に帰り、生理痛の5倍くらいの痛み。
この時は痛み止め飲まずがまんできた。
波があるが4時間ほど痛み続き、夜9時頃便意がありトイレでいきむと、「スルっ」と塊が出てきた。これが完全排出かなと思った。
実際この後、痛みは引いていってひどい痛みは無くなった。
その晩は様子見とし、翌朝いちばんで病院にいき、綺麗に排出されているため手術不要とのこと。

■排出後について
・2回めの稽留流産の時は仕事していたので、会社を2週間おやすみいただいた(制度があった)
・出血は2週間から3週間続いた(最後の1週間は薄い茶オリのみ)
・2週間後に病院で、内診、エコー、血液検査(HCG値)を見てもらい、子宮内に妊娠組織が残っていないことを確認してもらった

■アドバイス
日本の社会では自然排出は難しいかもしれません。
いつまでかかるかわからないため職場への迷惑、
外で排出となった時に恥ずかしいなど。

私の場合は外で排出となることはなかったです。
どちらも家でリラックスしている時に自然排出となりました。

待っている間は「いつ出てくるのか」
「結局でてきてくれなくて手術になったらどうしよう」
「今日も排出のためにジョギングをしないと」など
プレッシャーや不安から精神的には地獄に陥ります。

しかし自然排出を終えた後は、
自然排出の方が体には優しいと病院の先生もおっしゃっていたため、
自然排出を選んで、良かったと思います。

2018.01.21 投稿者:にゃ/東京都

2017年11月21日に第一子を死産しました。
41周3日、3400gの女の子でした。

はっきりした原因は不明。
妊娠の経過もなにもなく順調。
予定日より遅れているだけでした。

恐く、生まれたときのへその緒の位置から、
運悪くへその緒がつぶれてしまったのではないかとのこと。

11月20日のNSTは問題なし。
11月21日の早朝におしるしと陣痛が来ました。

旦那さんと、やっと赤ちゃんに会えるー!と思いながら
産院に向かいました。

産院に行き、心拍を確認。
子宮口が開くのを待ち(歩いたり足を温めたり)…
2時間後に心拍を確認したら
赤ちゃんの心臓は止まっていました。

出てきた我が子はまだ温かかったです。
もしかしたら、赤ちゃんは産声をあげてくれるんじゃないかと思ったけどそんなことはなく。

二人で涙を流しました。まさか、こんなことになるなんて。

“次は嬉し涙を流すぞ”
旦那さんが言ってくれました。

そして、次の日には娘におもちゃを買ってきてくれました。

病室で娘と一緒に過ごしました。
助産師さんに抱っことか好きにしていいと言われたけど、
不馴れで恐れ多くてなかなかできませんでした。

そんなこんなしてるうちに、あっという間に火葬。
もっとたくさん抱いてあげればよかった。

私の旦那さんは、うつ病持ち。

自分の感情もあまりださないし感性もない
(音楽に感動するとかいうことがほとんどない)。

自分の遺伝子を引き継ぐ子供は自分みたいになるだろうし、
親になんてなれないと言っていました。

そんな彼が涙を流し、前向きなことを言ってくれた。
娘は旦那さんを父親にしてくれました。

支えてくれた旦那さん、お腹に来てくれた娘ちゃん、
ありがとう

もうすぐ月命日。

まだまだ心の穴は大きいです。

あと少し早くお腹から出してあげていれば、
とか、もっと注意していれば、とか、
もっと勉強していれば、とか
たくさんの後悔が頭に浮かんできます。

だけど、もうどうにもできない。
時間はかかっても前に進むしかない。

娘の死は意味のあるものだと信じたいし、
意味のあるものにしたい。

最近は、ネットで流産死産された方の記事を読んだりして
とても励まされています。

私も同じような体験をされた方の力になれたらと思いつつ、
発信力がないな、と思っていたときにここを見つけました。

体験を綴らせていただける場を作っていただき、
ありがとうございます。

少しでも天使パパママのお力になれたら幸いです。

2017.12.19 投稿者:さちえ/埼玉県

はじめまして。少しお話しさせて下さい。

三年前のの5月末妊娠18週頃から出血が始まり自宅安静の指示とウテメリンの処方が開始となりました。今まで凄く順調だったので、本当に凄く戸惑い産科の看護師さんの前で我慢できず泣いてしまいました。ずっとフルタイムで仕事をしてきて妊娠中はほぼ動いていて、三人目という事もあって、多少の出血くらい大丈夫と簡単に考えていた自分をすごく責めました。

自宅安静となって6月6日の夜出血と共に、
サラサラの帯下のような物が多量に出てきて、お腹も少し張っているため、掛かりつけの総合病院に夜中に車で走りました。到着するまでの間お腹が不規則に張ってきて、こわくてこわくて指先が冷え体が震えていたのを覚えています。

病院に着きすぐに診察を受け、羊水が凄く
少なくなっているとの診断を受けすぐに入院となる。

病室に行きすぐにモニター装着、ウテメリンの点滴の開始絶対安静の指示が出ました。

毎日が不安で少しでも羊水が増えるように祈る事しかできませんでした。
毎日内診があるんですが、担当の先生を含め三人の先生が診てくれていました。

2日3日と入院していてお腹の張りは治ったものの、出血だけは徐々に増えていき羊水も増える事はありませんでした。
診察も三人の先生が診ていてくれたんですが、入院して1週間くらいで初めて男の先生が診てくれた時に一言『もうダメだ。』その一言だけで、何も説明はありませんでした。
そのあと病室に戻り旦那に電話した時に、今まで我慢していた不安な気持ち、その男の先生の態度号泣しながら電話で話していました。
旦那が病室に到着し、担当の先生から詳しい説明を受けて、まだはっきりとは言えないが慢性早剥羊水過少症候群だと思う。という説明を受けました。

私の場合15週くらいから出血が始まっているから、22週過ぎて赤ちゃんを出産しても予後がすごい悪くすぐに亡くなってしまう可能性が高い。

21週6日までだったら中絶もできます。

という説明を受け、私はその時すでに21週になる為答えを2日で考えて下さいと言われました。

もうわけがわからず泣きじゃくりました。
結局赤ちゃんは死ぬしか道はないのか。

旦那と話し合い、少しでもこの子を救ってあげられる方法がないのかインターネットで調べました。

だけど出血は入院した頃よりも増え、
モニターにうつる子宮内にはほぼ羊水がなくなっているのもわかりました。

旦那と泣きながら話し合い、もし産まれてもすぐに死んでしまうか、重い障害が残り家に帰れないかもしれない。旦那は家族が離れ離れになるのは辛い。私は生きて産まれてもすぐに看取る勇気がなく、中絶を決断しました。

中絶を決断しても胎動があり、殺したくない。ずっと生きていてほしい。いっその事このまま一緒にお腹の中にいるまま自殺してしまいたいと考えていました。

なんで私は子供を殺してまで生きなきゃいけないんだ。私が代わりに死ねたら良いのにと思っていました。

中絶を決めてからは気持ちが凄く荒んでいて、看護師さんの前で泣く事もあったんですが、みんな嫌な顔をせず、時には一緒に泣きながら話しを聞いてくれました。

中絶を決めたが入院している総合病院では処置する事ができず、産婦人科だけの大きい病院に転院する事になり、もう中絶でくる期日もせまっているため、21週と4日で転院となりました。

旦那の車で新しい病院に向かっている時に、このまま逃げてしまいたいと泣きながら旦那に訴えていて、旦那も静かに頷いてくれていました。

新しい病院に着き、もしかしたらこの子は助かるんじゃないかと淡い希望をもちましたが、診察を受けましたが、やはり結果は同じですぐに中絶の処置に入りました。

沢山の幸せそうな妊婦さんがいる中、私だけ泣きながら廊下を歩いて処置室まで行きました。

私の場合中絶と言ってももう胎児が大きくなっているため、出産と同じ方法でした。

最初に大きいクスコを膣の中に入れ、その中に海綿という水分を吸うと大きくなる綿を沢山入れました。

処置をしている最中は激痛で泣きながら処置を受けました。

なんで私ばかりこんな辛い目に合わなければいけないのかとずっと思っていました。

新しい病院の担当の先生からは、赤ちゃんは羊水もほぼないからもうお腹の中で今日にでも亡くなってしまうよと言われました。
でも赤ちゃんの胎動はずっとあったんです。

苦しいって言ってるのかな?生きていたいって言っているのかな?

入院して2日目はまたクスコを入れて膣を無理矢理開き、前日に入れて膨らんだ海綿を一つづつ抜き、また新しく前日よりも多い海綿をいれました。この時も激痛で泣きながら処置を受けました。

お腹の赤ちゃんと過ごせるのもあと一日だけでした。お腹を触ると返事をしてくれるように胎動がありました。

なんで生きているこの子を殺さなきゃいけないのか、そればかり考えてしまいます。

明日にならないで、ずっと一緒にいたいと願っていました。

6月17日21週6日の朝になりました。

ついにお別れの日です。朝10時にまたクスコを膣に入れて、前日入れた海綿を一本ずつ抜きます。

病室に戻り陣痛促進剤の点滴を行い、3分もしないうちに陣痛が始まりました。

それから直ぐに破水し、赤ちゃんが出てきました。

赤ちゃんが出てきた瞬間にビクっと動いたんです。
赤ちゃん助けてってさけんでいました。

直ぐに車イスで処置室まで運ばれ、胎盤を取り出していました。
赤ちゃんはどこかわからなくて、涙がただあふれていました。

それから処置も終わりナプキンを沢山当てられ病室に戻りました。
処置が終わり1時間くらい経ってから、赤ちゃんが運ばれてきました。

32センチ424gの小さい小さい冷たくなった女の子の赤ちゃんでした。

旦那と2人で時間が許す限り抱きしめていました。

次の日には火葬しなければいけないので、その子に手紙を書き小さい棺に入れました。

夜9時まで一緒にいる事が許されたので、抱っこをしたりキスをしたり撫でたり離れたくなかったです。

次の日には退院し、火葬場に行き、さらに小さい小さい骨になって帰ってきました。もう何もしなくても涙が溢れてきて、骨を拾う事ができませんでした。

それからは吸ってくれる赤ちゃんもいないのにオッパイが張ってきて、本当に苦しかったです。

池川明先生の本を読んで赤ちゃんが来てくれる事には全て意味があると書いてありましたが、私はまだ意味を答えを見つける事ができません。

2017.11.18 投稿者:はるか 北海道

私は毎回重症悪阻で入院します。
長男の時もでした。

次男の時は長男を実家に預け、主人にはもちろん、
周りの人たちに迷惑をかけ…

そのまま絨毛膜下血腫特大サイズで、安静を強いられ…

出血したときの なに? っと心が凍る感覚…

そして、三人目。また悪阻で入院するし、
周りに迷惑をかけるなとも思いながらも、欲しかった。

悪阻を乗り越えかけた13週、
昼寝から目を覚ますと大出血。  

なに?もらした??  

次男のときより出血が多く、
心が張り裂けそうだったけど、まだ生きてる。

入院して、自分にできる限りのことはしよう。
と、前向きに考えた時

じわっ?  破水。

医師から奇跡的にもっても、
22週前後でお産になると説明を受ける私。

NICUの看護師だから、何を意味するかは 
説明しなくてもわかるよね。と。   

わかります、自分と子供の背負うリスク。家族も苦しむこと。

胎盤下にも血腫があり、羊水が少ない中、
動きにくそうに 生きてるよ と、教えてくれる。

私たちは、今いる息子たちのことも考えて、
私が生きる道を選んだ。

そらは、上手に産まれてくれて、
空にかえった。

かわいい顔だった。
涙は止まらず、今でもこれで良かったのかと考えたりする。

長男は 

そらに会いたかった

と、泣いてくれた。

次男はそらは今楽しくあそんどるよ
とおしえてくれた。

命は尊いな、重いな。

それでも 私はいきていく。

2017.04.16 投稿者:ほし/広島県

妊娠18週7dで子宮内胎児死亡と診断され、
本日20週1d、第2子の男の子を出産しました。

第1子女の子を得るまで結婚後7年かかりました。

それまでに化学流産、6週稽留流産、体外受精2回目で
10週心拍停止初期流産と3度流産を経験しました。

3度目の流産時、結婚が34歳と遅かったのに
不妊治療専門病院へステップアップするのが遅かったせいだと
不勉強であったことを後悔しましたが、

もうとにかくやれるだけやろうと覚悟を決め、
4度目の顕微受精で妊娠、
その後順調に第1子が産まれてくれました。

一人目が産まれるまでは、年齢も42歳だし、
一人でもいてくれれば十分と思っていたのですが、

いざ健康に産まれてくれると子供がかわいくて、
この子に弟妹を、もう一回お産がしたい、と欲が出てしまいました。

娘を産む前に不育症の検査は陰性だが、
両卵管閉塞で自然妊娠は無理であることが分かったので、

体外受精しか方法はなく、
それも2、3回までにしようとリミットを決め
ダメ元で再チャレンジを始めました。

奇跡的に再チャレンジ2度目の顕微受精で
この度の妊娠に至りました。

6、7週と心拍が不安定で心配だったのを乗り越え、
9週には出血し切迫流産との診断されるも心拍は強くなり、
10週には念願の二度目の母子手帳を受け取りました。

もともともし妊娠できたら、高齢なことをふまえ、
娘の時にはしなかった染色体検査をしようと考えていました。

しかしなんとなく、娘が産まれたこと、
色々乗り越え母子手帳も無事交付されたことで

もう妊娠出産についての厄払いは出来ている、
この子を安心して産むための検査だという自信を持っていました。

が、検査前の12週、突然後頸浮腫が指摘されました。

8mmと厚く、染色体異常の可能性が高い、
本来受けるつもりだと聞いていたけど本当に検査は受けるべきだ、
と医師から言われました。

浮腫の強さから不安を感じ、
NIPTはとばして16週に羊水検査を受けました。

そして、結果待ちまでの18週妊婦健診時に
心拍が止まっていて、その後18トリソミーであったことを告げられました。

男児だったので、
産まれるまでに淘汰される確率が高かったことも分かりました。

染色体異常の可能性を指摘されてから、
一番怖かったのは「中絶を選ぶこと」でした。

不妊治療しといてなんていう本末転倒っぷり?という思いと、
でもクリスマスも病室で点滴に繋がれている小児の姿を見ると
我が子にその処置をさせてまで生き永らえさせるのは親のエゴなのか...
など、ぐるぐる正解のない悩みにつきまとわされました。

こんななら、妊娠しなきゃ良かった、
初期で流産すれば良かったとひどいことを思っていました。

そんな中、ひっそりと息子は自らの心拍を停めてしまいました。

きっと私達夫婦が悩む姿、
また今いる孫を一番大切にしたい祖母と母の喧嘩を見たくなかったんだろうと思います。

息子に気を遣わせてしまった、
ごめん、ごめんねとお腹に謝りました。

何も出来なかったお詫びに
せめて名前をプレゼントしようと、
お父さんと「颯太朗」と決めました。

颯ちゃんは本当に親思いで、
出産も順調で2日かけて子宮口を開き、
3日目に生理痛くらいの陣痛で本当にするん、と出てくれました。

おうちで待ってるお姉ちゃんの為にも、
母体のためにも、申し訳ないくらい何の障害もないお産でした。

心拍が止まってから長くお腹にいたせいか、
新生児とは違う色形で、水分が多く

お産前に手縫いした帽子、ベビー服、
オムツカバーも着せれずな体の脆さですが、
しっかりとお顔があり、少し開いた口が可愛いらしいです。

そして、エコーではなく
はっきりと目視で頸部浮腫を見ることで、
生きるのは無理だったんだなと現実を受け入れることが出来ました。

手形足形、臍の緒など彼自身のものを残すことが出来なかったのですが、
また次帰ってくるから!というメッセージじゃないかと思いたいです。

何より、2歳前やんちゃしだした娘に手を焼きイライラしていた私に
「子供を大事に育てるって言ってなかった?健康であればいいっていうの、忘れたの?」と浮腫があることでたしなめてくれた気がします。

赤ちゃんいるよ、かわいーねーと言って、
止められなかったオッパイを弟が出来るとあっさり卒乳したお姉ちゃん。

そして、心拍停止しただろう頃から
また赤ちゃんいないよ、とオッパイをねだりだしたことから、

ああ、姉弟はきっとお話出来てたんじゃないか、
二人ともお互いを思いあってたかなと
妊娠しないと体験できない幸せで不思議なエピソードまで
残してくれました。

二度も出産出来て、赤ちゃんとして姿も見れて、
涙はいっぱい出るけれど、本当に会えて良かった。

そして、ここに投稿する方々のお話から励まされ慰められたので、
お礼のつもりで私も参加しました。

颯ちゃん、皆さん、ありがとう。

2017.02.03 投稿者:まこねこ/鳥取県

これは、今年の3月にFacebookに投稿した文章です。

「長文なのと、始めに…少し悲しい話をするのを許してください。

去年の春、最愛の赤ちゃんをお腹の中で亡くしました。

今まで味わった事のない感情に襲われ、
頭がおかしくなりそうな日々を過ごして数ヶ月が経ちました。

心の中に空いた穴は、なかなか塞がりません。。

どうして

ダメと分かっても「何とかなりませんか」と医師にすがった。

もしあなたに何か大変な病気があっても、私は構わなかったのに

産まれて欲しかったよ。

会いたかったよ。

なんでなんでなんでなんで

Y(長女)のときの様に、
妊娠したら普通に産まれてくると思い込んでいた。

産まれてくることが、
当たり前のことでは無かったと初めて知った。

あの頃の悲しみは少しずつ薄れてきたけれど、
決して消えることはなく

産まれる予定だった冬が訪れても、
赤ちゃんの事が頭から離れなかった。。

赤ちゃんの事ばかり考えていた冬の日

「私、目の前にいるYのこと考えてなかった…」とハッとした。

ごめんね、ごめんね、
お母さんYのことをもっと考えないとね。

心の中で娘に謝って、
少し気持ちに区切りをつけることができました。

それから数日してYが
「お母さんのお腹に赤ちゃんいるよ!」って

絵本かテレビの影響でそう言ってると思っていたら
2、3日後から始まった強い吐き気。。

赤ちゃんが、また我が家にやってきてくれました!

ひどい悪阻が2ヶ月も続いてしんどいけど、
お母さんがんばるよ!

無事に産まれてくれるか
不安で不安でたまらないけど、
いつか必ずあなたを抱っこしてあげたい。。
産声を聴きたい。。

安定期まであともう少しだから、お母さんと一緒に頑張ろうね。」

あれから半年、
今年の9月に無事に次女が産まれました。

『うまれる』は流産する前から
ずっと私を支えていたものでした。

赤ちゃん、ちゃんと来てくれました。。

おこがましいですが、
私の体験が、少しでも辛い思いをしている方の励ましになりますように。

2016.10.01 投稿者:ユメイママ

4年前、第一子を36週で死産した経験があります。
妊娠期間は診察でまったく異常なしだったのに、臨月に入ってからの検診時に死亡している事がわかりました。
その後13時間の陣痛で出産したが、産声は聞こえませんでした。
男の子でした。名前は朝陽と名付けました
原因は解剖しないとわからないと言われ
かわいそうなので解剖拒否しました。
その為、なんでなんだろう?あの時病院を変えていれば
あの時仕事を早く休んでたらよかったのか?とか悩む日々
一番異変に気が付くべき母親が、気づいてあげられなかった。
守ってあげられなかった事に今でも自責の念にかられる事があります。
当時は、家にひきこもり、毎日泣いて過ごしていました。
気晴らしに外出してみては、妊婦さんや、赤ちゃんをみると、心がざわつきました。
不妊で悩む人もこんなツライ気持ちなんだと思いました。
でもそんな時に限って赤ちゃん連れに遭遇しては100%赤ちゃんと目が合い、そして私にニッコリ笑いかけてきて、
「大丈夫だよ」って赤ちゃんから言われてるみたいで
その時は涙が止まりませんでした。

火葬中に皆で待機してる中、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
あとから聞くとまわりの人には、その泣き声は聞こえておらず
聞こえてたのは私と旦那だけでした。きっとあの子が最後に聞こえなかった産声を利かせてくれたのだろうと思い。
その不思議体験があってから、立ち直れたので親孝行のあの子には感謝しかないです

4か月がたち、再び妊娠しました。やはり不安でいっぱいでした。
医者が使う聴診器を購入して、心音を確認してみたりして、夜も眠れなくなるし
なんであの時異常に気がつかなかったんだろう。
あの時ああしていれば・・・いつまでたっても疑問が消えませんでした。
日本の医療は発達してるんじゃないのか?
何か死産を防ぐ方法はなかったのか?
ネット検索辛かったけど自分なりに調べてみました。
28週以降の死産の確率は2000件のうち1件。本当めったにない事ですが、0ではない事。
あと、胎動カウントという方法で
毎日グラフをつけるだけで、気持ち安心できました。
今考えると、あの時は神経質になりすぎてました。
後半には、もっとおなかの子供を信じようと思って乗り切り
あの子の予定日近くあの子が亡くなった36週で男の子が産まれました
本当に妊娠出産は命がけだ生まれるって奇跡だと感じました。

今は無事2人の子供に恵まれました。あの子のおかげで家族の絆を深まり
日々子供達と過ごす、なにげない日常に幸せを感じております。
それから、あの子の片身の足形を今二人の子供達の足形と並べて、大事に飾っております

2016.04.15 投稿者:ハコのママ/沖縄県

初めまして。
私は39歳の主婦です。
上映会が香川に来るたびに「うまれる」を見させて頂いてます!

私は過去に3度初期流産をしています。
結婚して1年後に妊娠し、5週。
その2年後には8週。
2回、流産の手術をした病院で不育症なのか、先生に聞いたところ、
不育は、調べても分からん!何度も妊娠頑張れと、心無い言葉に愕然としました。
その後、県内の総合病院で、子宮頸ガンの検診と一緒に
不育の事を聞き、血液検査をして貰いましたが、結果は異常なしでした。

それからは、妊娠することが恐く、なかなか妊活に踏み切れませんでした。
何故、私だけ産めないのだろうと、悩みました。
周りの友人や、後輩達の可愛い子供達と接する度、寂しい想いになりました。
しかし、そんな風には振る舞えず、周りには明るく振る舞っていました。

それから5年後の、昨年の春頃、違う病院で子宮頸ガンの検診で、子宮筋腫が
大きくなってることが判明。
そこの先生がとても素晴らしい先生で、子宮筋腫の治療をする前に妊活しよう!
と私の背中を押してくれました。
それから3ヶ月、タイミング療法で、妊娠が判明!
しかし、心拍確認後なかなか大きくならず、今回も残念ながら10週で、流産してしまいました。

そこの病院でも再度、不育の検査をしましたが、やはり異常はなく、
全国的にも研究が進んでいる、岡山大学病院を紹介して頂き、今は検査中です。
不育症の検査は、長くお金もかかり精神的にも大変です。
ましてや、県外の病院へ通うのは時間もかかりシンドいときもあります。

生理中の検査や、高温期の検査等、何度も血液検査をしなければなりません。
それで、正確な結果が出れば良いのですが、原因は複雑で多岐に渡るそうです。

もっと、もっと不育症の研究がすすみ、国からも助成があればなとつくづく感じています。

何度も流産をし、不育症かもと思ってる方は、沢山おられると思います。
しかし、フルでお仕事されてる方や、近くに病院が無い方は諦めてしまうのではないかなと
思いました。
私は有難いことに、主人の理解もあり、県外の病院へ通うことや、不育症の検査をすることを
了承してくれています。

監督様が、また映画を撮る時に不育症のことも取り上げて下さればなと思います。
不育症であることは、親友の中でも少しの友人にしか言っていません。
私の母には言っていますが、義理の両親には言えません。

もっと、もっと世間の方が不育症のことを知って欲しいなと思います。

本当に、自分が元気で産まれてくることは奇跡なんだなと今は、両親に感謝しています。
生命って本当に素晴らしいです!
私はまだ母になれていませんが、この体験が同じような体験をされてる方の何かの足しになれば幸いです。
まとまりの無い文章で、すみません。

2016.02.07 投稿者:ありちゃん。香川県在中

結婚式をしていなかった為、10年の記念に結婚式を予定していましたが結婚式の5日前に父は肺がんで亡くなってしまいました。
結婚式を見せる事が出来なかったと泣いてばかりいました。

それから1カ月ほどして、最近体調がおかしいなぁ〜と思っていたら、4歳の息子が、ママお腹に赤ちゃんがいるよって言ったんです。
不順だったし、10日前くらぃに検査薬した時は陰性だったので、まさかとは思いましたが、次の日に検査薬をしたら、薄く陽性。
父を亡くして寂しかったのと、父が戻ってきてくれたとすごく嬉しかった。
そして、今朝から出血。
結果は、化学流産と言われました。

沢山泣いたけど…
ありがとうねって。
まだまだ立ち直るのに、時間がかかりそうだけど…
子供ってすごいなぁ〜 とつくづく感じております。

いのちって本当に奇跡ですね。

2015.10.26 投稿者:ゆぅママ

二人目の子供から12年ぶりに三人目ができました。初めの頃胎嚢が見えないと言われ不安な日々を過ごしていましたが、4回目でやっと胎嚢が確認できました。心拍も確認でき、毎日楽しくてしょうがなかった。一番上の子とは18歳離れて、2番目とは12歳離れてて、二人とも三人目をとても楽しみにしてくれて、検診の時は順調⁇私自身も少しずつお腹が多くなるのが楽しみで愛しくて…。

そんな中妊娠糖尿病の疑惑。結局数値が高くて食事制限とインスリンを打つことに。お腹の子供のためにと頑張っていました。2015年7月14日まちにまった、5ヶ月検診。エコーかけた瞬間子供の心拍が無いのがわかった…。先生もあれ?ちょっと待ってください…。心拍確認するもやはり無い…。先生が、とても言いにくいのですが…。と口を開いた…。……。

はぁ…。やっぱり心拍無いんだ…。頭の中が真っ白の状態。旦那が付き添ってくれて、旦那にとっては、初めてのエコー映像が心拍停止の我が子…。大きさを確認したところ、16週か、17週に死亡してるとの事。もうすぐ19週目、胎動が無い事を感じてはいたけど。まさかと思って考えなかった。もし死亡してるならおかな痛くなるよなとか自分で解釈してた。我が子は二週間前に死亡してるなんて思ってもみなかった…。そんな中、手術の話に…。死亡してから時間が経っているので水分で膨れている可能がありますと言われた。私もハイ、ハイ、なんて返事を返してましたが、早めに手術しましょうと言われ、ハイといった瞬間…。涙が止まらなくなってしまった…。何が何だか訳が分からなくなって。先生が落ち着いたら話しましょうと、別の部屋連れて行かれた…。旦那が私の肩を抱いてくれて私は涙が止まらなかった。

二週間前にきずいてあげれなくてごめん…。娘、息子になんて言おう…。いろんな事が頭の中グルグル…。少し落ち着いた頃先生に呼ばれて、早ければ明日入院できますとの事。二週間も放っておいてしまった…。早く出してあげなきゃって…。明日入院しますと伝え手続きをし、自宅に帰宅。気持ちの整理なんてつか無い状態…。妊娠を知っている人たちに胎児死亡の結果を報告。後で産まれた?って聞かれたくなかったから…。娘と息子にも報告。18歳の娘は泣き崩れ落ちました。12歳なる息子は我慢してた…。もちろん旦那も我慢して…。

7月15日入院。午後一時半過ぎから子宮を広げる処置を開始。
午後五時過ぎさらに広げるためにまた処置。
我が子に会うために着実に進む処置の中、嘘であってほしいとかもしかした産声あげてくれるかもとか、色んな気持ちがこうさしはじめた。午後8時過ぎ頃から腹痛と出血が少々。

7月16日午前四時から陣痛のような痛みが始まる。
8時位から痛みがピークに達した。9時近く、分娩室へ…。痛くて痛くて…そんな中、バンッ!とお腹の中で音が鳴った瞬間陣痛がおさまった。隣旦那がいてはっすいしたかもしれないって言ってお腹の中我が子にママもう痛いの嫌だからもう出ておいでって話かけました。その後先生たちが来て、はっすいしてるとの事。しばらく放置…。陣痛も私が我が子に声かけてからなくなっていた。これでお産できるのか?と思っていたら、すでに我が子は子宮入り口に足を出しているようで、陣痛ないまま、先生がスルッと出してくれた。2015年716日9時42分、死産。産声をあげる事のない我が子…。カチャカチャと器具の音…。涙がとめどなく溢れて…。

助産婦さんが男の子ですと。面会はどうしますか?旦那さん来てからしますか?に対し私はうんとうなずいた。
数分後旦那と私は我が息子に会った。小さな小さな男の子。二週間も放っておいてしまってごめんね…。愛しい我が息子…。ちゃんと産んであげれなくてごめんね。少し休んでから病室に戻り、我が息子と私と旦那と三人で一日を過ごしました。明日にはお姉さん、お兄さんに会えるからねなど色々話をした。

7月17日退院し家族みんなで過ごしました。三人目の我が息子の名前は魁凰。みんなで魁凰にいっぱい語りかけました。

7月18日火葬…。小さな小さな魁凰はお空に帰って行ってしまいました。残らないと思って骨もちゃんと残ってくれました。まだまだ気持ちの整理なんてつかないけど、魁凰がママのお腹に来てくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
こんな辛い思いは誰だってしたくはありませんし、させたくもありません。でも現実では色んな死産の形、流産の形があります。
前向きになるのも時間がかかります。でも乗り越えるしかないんですよね…。まだまだすぐに乗り越えれる状況ではないけど…。魁凰がママを選んでくれてありがとう。魁凰…。魁凰…。本当にありがとう…。ちゃんと産んであげれなくてごめんね…。

2015.07.20 投稿者:魁ママ 秋田県

2014年8月11日、三人目、待望の女の子を出産しました。
妊娠34週、羊水が少な目という事で念のため大きな病院で検査しましたが、赤ちゃんも元気で充分に成長していると言われ安心していました。赤ちゃんの体重も3000gに近いので早めにお腹から出してあげましょうと37週5日で誘発し上手に陣痛がきて、赤ちゃんとの息もぴったりで二時間で生まれました。おめでとうございますの助産師さんの声のあとなかなか赤ちゃんが泣いてくれませんでした。娘が必死で泣こうとする声は聞こえました。

ドクターヘリで大きな病院へ連れて行く事になりましたが、ヘリコプター乗り場で息をひきとりました。旦那が娘があたたかいうちに妻に抱かせて欲しいと言ってくれたので、私はあたたかい娘が抱けて、私の腕の中で娘は二回あーと声を出しました。生まれて1時間半の命でしたががんばり屋でした。娘は18トリソミーだった可能性があるとお医者さんに言われました。

私達夫婦は妊娠中2月に「生まれる」を観ていました。虎ちゃんの事、予定日に天使になった女の子の事、娘はちゃんと私達夫婦に心の準備をさせてくれていました。

妊娠と同時に無性にミシンが欲しくなって今までやった事がない手芸にはまって二人のお兄ちゃんのズボンをせっせと作りました。お腹の子がそうさせてるんだと思い、名前は絹と決めていました。38歳、最後の出産と思っていました。出産は赤ちゃんと一体になれて最高の出産でした。

18トリソミーについて調べました。絹が生まれてくれた奇跡と頑張りを誇りに思います。お兄ちゃん達の為に沢山洋服も作ってくれたし火葬までの一日はお兄ちゃん達はいっぱい抱っこしたりミルクあげたり、大事なぬいぐるみをいっぱい天国のお土産にくれました。思い出いっぱいくれました。

絹の一周忌がもうすぐです。そして私はその頃また女の子を出産する予定です。ただただ奇跡を信じて出産しようと思っています。

2015.07.19 投稿者:絹のお母さん/長崎県

私が経験した子宮内胎児死亡のお話です。

私には小学校低学年の長女と幼稚園児の長男がいます。
私自身、3人きょうだいの末っ子で兄等とは歳が9歳と7歳離れているので
そのくらいの年の差なら頑張って3人目を産みたいかも…、とぼんやり心のどこかでは思っていました。

そして、3月に思いがけず3人目を妊娠しているのが分かり、驚いたのですが、
悪阻、経済的な不安、子育てに対する自信の無さで初めてのマタニティブルー、
妊娠をあまり明るく捉えられない日々が続いていました。

上の子ども達、特に息子は赤ちゃんができたことをとても喜び、折り紙で遊ぶ時には
「これは、お父さんの、これはお母さんの、これはお姉ちゃんの、これは僕の、これは
赤ちゃんのー!」と赤ちゃんの分まで作ってくれたり、手作りおやつを家族分作っていた時には
「赤ちゃんの分はー?」と心配してくれり、夜眠る前にはお腹をさすってくれたり、明るく話しかけてくれたり、
複雑な中にもとても嬉しい日々でした。

いつの頃からか悪阻がぱたっとおさまり、5ヶ月に入って初めての検診、
今日も大きくなった姿を見せてくれるかな、と軽い気持ちで診察室に入りエコーの台に乗りました。

すると、先生がボソリ、何か言っています。おもむろにエコーの場所を変え頭の大きさをはかられ、
画面上に出てきた数値が13w6d

ん?私はこの間16wに入った所、本当なら16wと、表示されるはずなのに…
お腹の中で赤ちゃんが大きくなれて無いのかな、そしたら何かしなくてはいけないのかな、
知識が何も無いながら不安がよぎった瞬間、先生が言い放った言葉はもっとガツンと重みのある言葉でした。

「残念ですけど、お腹の中で赤ちゃんは亡くなってしまっています。頭の大きさからすると
亡くなってから2週間ほど経っているみたいです。」
…。

え??? どういうこと?頭の中が真っ白になりました。意味がわからずわけもわからず、
説明を聞くためにフラフラと椅子に座り、先生が言いにくそうに医学書を開いて説明してくださる
のをただ淡々と聞いていました。

子宮内胎児死亡…
そんなことがあるなんて知りもしなかった私はその説明の後、日程の相談にうつった時点で
ジワジワとあつい汗が出てきて座っているのにくらくらしてしまいました。
さっき亡くなってる、と聞かされた台に横たわる様に言われ、わけもわからないまま
タオルハンカチで涙を拭いていました。助産師さんのはからいで仕事中の主人が迎えに来てくれました。

妊娠がわかってから周りの友達、家族がいつも気遣ってくれ、体調を心配してくれ、何月〜?
楽しみだね〜、とみんなが祝福し笑ってくれた顔、楽しみにしていたこどもたちの気持ち、
喜んでくれていた夫の気持ち、戸惑いながらも頑張らなきゃと思っていた自分の決意、
いろんな未来の予想図が崩れて頭が真っ白になって、命を失った事がただただショックで、涙が止まりませんでした。

それから翌日に入院、赤ちゃんと会うための処置があって、身近で信用出来るお友達には報告をして、
痛くない様に祈っといてね。とお願いしました。

入院3日目の朝バタバタと展開があって、無事に膜に包まれ羊水で守られたままの赤ちゃんがお腹から出てきました。
出てきてみて、臍の緒が細くなって縮まっているところがあったことがわかり、それが原因でしんどかったみたい、
ということがわかりました。

妊娠当初から女の子だと予感してずっと女の子の名前を悩んで毎日毎日、名前何にしようかーと考えていたのに、
生まれてきた赤ちゃんは可愛い可愛い男の子でした。

手術のあと麻酔から覚めた私に、先に赤ちゃんに対面して先生から説明を受けていた夫が赤ちゃんの様子を教えてくれました。
1人の時も夫が付き添ってくれている時も病院のお部屋でふとした瞬間泣いてばかりいました。

悲しみが止まらない。こんな悲しみがこれからずっと続くのか、
私はいったいどんな心持ちで生きていけばいいんだろう…
我が子を亡くすってこんなに悲しくて寂しくて苦しい事なんだな、
自分の身に起こるなんて思ってもみなかった、想像もしてなかった
落ち込んでいました。

だけど、男の子だったと聞いて名前をつけようと思い
子宮内胎児死亡の記事を携帯で読んだりしながら、インスピレーションで
浮かんだ名前を主人に話したら、じゃあ漢字はこうしようと
賛成してくれました。名前は、日々の生活の中で毎日必ず目にするもの
だからそれを見たら必ず思い出す様に… そんなおもいを込めました。

手術の後、食事をとって、その後心の準備をしてから小さな棺に入った
息子を連れて来てもらいました。

2週間ほどお腹に居たので頭も体も膨張していて、色も普通の赤ちゃんの様
ではありません… とはからいの説明を受けて、ゆっくりと対面させてもらいました。

小さいけれど、お目目もお鼻も顔も手の指も足の指も小さいけれど
男の子だよ!のシンボルも何もかも愛おしい姿。

すごく残念だけど、悲しいけれどわたしのお腹の中にうまれて、そしてお腹の中でここまで大きく
育ってくれて、とても幸せだなと思いました。
主人と3人で写真を撮ったり触れたり、頭にいいこいいこしたりして、1度さよならをしたけれど、またこの手に抱きたくなって、その夜にも会わせてもらいたいとお願いしました。

翌日の退院の前にも最後の対面としてまた会わせてもらい、自宅に戻りました。
帰宅し、ベッドに横たわり、泣いたり、考えたり、気持ちを整理したつもりになっても
次の瞬間には涙があふれたり… とにかくこのお腹にこの間までいた命がいないなんて
信じたくありませんでした。その次の日までクリニックに赤ちゃんをあずかってもらっている
という事を聞いていたのですが、長女が帰宅し、この子たちも写真だけではなく
しっかりと赤ちゃんの姿を見て、会って、赤ちゃんが生きていたこと、死んでしまったこと
その事実をちゃんとその目で見るべきでは無いのか、家族みんなでこの事をしっかりと受け止めないと
後悔するのではないか、という考えが浮かび、娘に○○君に会いたい?と聞くと
会いたいと即答、その夜、またクリニックに家族全員で会いに行くことに決めました。

小さいね、冷たいね、とか各々に感想を述べつつもやはり弟の死を悼み色んな事を感じ受け止めている様でした。

家族5人で写真も撮りました。
亡くなってしまっているけれど、なんだかその写真は誇らしく、私たちは5人家族なんだ。
という証拠になりました。

翌日、主人は仕事に、娘は学校に息子は幼稚園に、家にひとり残された私はまた
この悲しみはこれからずっと続いていくのか、とおもいながら命を亡くしたショックでまた泣いていました。
このままではいけない…

クリニックの部屋で娘の同級生の女の子のお母様にひっそりとスピリチュアルヒーリングのお仕事をされてる方がいらっしゃることを思い出していたのですが、私はいてもたってもいられず昔の連絡網を引っ張り出しその方に連絡をしました。

するとすぐにお話を聞いてもらえることになり、家事を済ませ準備をし、待ち合わせの場所に向かいました。
こんなことがあったのですが、、、涙をハンカチでおさえながら
息子は今どこにいて何を考えているか、家族に対してどんな思いでいるのか、伺いました。

その方はなぜこんな事が起こったのか、その原因、バックグラウンドを含めた因果関係などを説明してくれ
赤ちゃんは「また帰って来るねって、心配しなくていいよ」って私に言ってるよ。と教えてくれました。

この度の死を通して私たちに、これから生きていく上で大切な事、心がけなければいけない事を気づかせてくれるチャンスをくれたんだね。と、とても意味のある死だったんですね、と教えてくださいました。

そして、「あったかい家で嬉かったよ、また来るよって、お父さんの事は尊敬しているよ、お姉ちゃんお兄ちゃんとは
一緒に遊びたいよって、私には心配しなくていいよ、愛情をいっぱいもらって嬉しかったよって。
すぐそばにいるよ。」 優しい子だね… と。

そして最後には「大丈夫? 心配しなくてもまた来るみたいよ」と笑顔でいってくれました。

主人から、また4人目を作ろう、と言われても、その子はこの子では無い、この子が
ダメだったから次の子、なんて思うのはこの子に失礼だ、私はこの子じゃないと意味が無いんだ。

ともがいていました…。かえって来てほしい。 めちゃくちゃだけれどそんな事を考えていたので
そのセリフがとても嬉しくて涙が止まりませんでした。

自分の死を通して私や家族にたくさんの大事な事を気づかせてくれた息子
本当にありがとうの気持ちでいっぱいです。

今はまだ日も浅く体を整える事で精一杯ですが、泣いてばかりの自分とはサヨナラ出来ました。
今回私は縁があって、息子の気持ちを聞くことが出来ましたが
きっとこの事が無かったら、ずっと泣いてばかりいて、大事な事にも気付かずに
ただただ家族に心配ばかりかけていたと思います。

いつまでもいつまでも悲しみに暮れていたのだと思います。

でも、また来るよ!と言ってくれている息子が、本当に笑って安心してかえって来られる様に
前を向いて家族を大切にして、生きている事に感謝して、1日1日を大事に過ごしていきたいと思います。

私と同じ様にお腹の中で赤ちゃんを亡くされたお母様、ご家族の皆様… 、当たり前の様に検診に向かい、
当たり前の様に帰宅し、新しい命に歓喜し、幸せな気持ちで過ごしていた日をそんな普通の1日が一転してしまった
あの瞬間、あの喪失した心を私たちはこれから一生忘れる事は出来ないと思います。でもだからこそ私たちは、
命があることが、朝を元気に迎えられることがどれだけ奇跡的でどれだけ尊い事なのかを誰よりも深く深く知っています。

そんな私たちだからこそ、前を向いてそばにいる家族を大切にして、何よりも命を大事にして1日1日をしっかりと
力強く生きていきませんか。 死産という悲しみを経験された方の1人でも多くの方が少しでも力強く今日というこの日を
とびきりの笑顔を忘れずに穏やかに過ごしていかれます様に… 心から祈っています。

2015.05.30 投稿者:さやや / 福岡県

待望の第二子を妊娠した時から、常に妙な不安がありました。
初期からの切迫流産で安静の生活の中、不安があってもおかしくはないけれども、何故かもう安静から逃れたい、終わりたいと思うような、そんな不安感でした。

毎週エコーで診てもらっても、心拍は確認できるか出来ないかの境目で、先生もエコーの画面をあまり見せてくれず、写真もぼけたものを一枚手渡されておしまい。
そんな中、9週目の検診で胎嚢が崩れている事が発覚し、稽留流産という形で妊娠生活が終わりました。

第一子の時にも切迫流産を経験していたので、体質的にも切迫流産になりやすいものだと思っていました。
なったとしても、きっと無事に生まれてくるはずだと思っていました。

でも、そうじゃなかった。
お空に帰ってからも小さな子を見るたびに切なくなり、精神的にもボロボロでした。

生まれ変わりを信じていたわけではないけれど、早く来た梅雨時期の晴れ間に、ふと空を見て、あぁ、このお空を見せてあげたかったな、見せてあげたいから、こんなお空の時にお母さんのところに来てほしいな、と思いました。切実に思いました。

翌年生まれた子は、梅雨の晴れ間の明るい朝に、元気よく生まれて来ました。
本当に清々しい程の青空が窓から見えていて、そんな窓の側で一緒に産後の処置をして、穏やかにあちこち首を振っている我が子を見て、やっとこの空を見せてあげられたんだな、と思いました。

妊娠中、切迫流産や切迫早産にもなり、それ以外にも肺炎やら胃腸炎になり、大変な思いをしましたが、安静生活が長引いても、絶対に生まれてくると確信していました。
その子も今年は保育園に入園し、やんちゃ三昧の日々です。

2015.04.30 投稿者:ちーちゃん/岐阜県

うちの二番目の娘は、1年前の3月21日天使ちゃんになりました。
お腹の中で重篤な病気が見つかり、お空に帰っていきました。妊娠中期だったので促進剤での出産でした。

一周忌、と同時に娘の一歳の誕生日。

悲しむよりも、少しの間だけど私たち家族の元に来てくれたことを感謝する日にしたい気持ちの方が大きく、当日は娘にケーキを作り、プレゼントに絵本を贈って、家族で誕生日のお祝いをしました。

みんなでまた来てくれるのを待ってるよ、と改めて娘に伝えられたことが嬉しかったです。

上の娘も妹としてとても大切にしてくれています。

お空で病気を神様に治してもらってるんだよね、早く赤ちゃんに帰ってきてほしいな、会いたいな、と言う娘のためにも、いつでも帰ってこられるように私も心身ともに整えていきたいと思っています。

2015.03.29 投稿者:しまぶくろ 愛知県

これは私の祖母の話です。
私が幼い頃に話してくれました。
当時、農家の傍ら蚕を育てて生計をたてていた祖母は。毎日過酷な労働をしていました。

そんななか、第2子を妊娠したそうです。
その子は順調に大きくなり、お産の日が近づきます。

しかし産まれてみると、産声をあげずに数時間後に天国に行ったのが確認されました。
妊娠中過酷な労働をしていたし、無理もしていたから赤ちゃんに負担が多かったんだろうと祖母は言っていました。

しばらくして、祖母はふと思い出したのです。

この子を妊娠するもっとずっと前に、祖母の長女が3才頃に突然玄関先で「まさおが産まれて死んじゃった」と仕切りに言っていた事を。
その時は何の事か解らず、この子変なこと言ってる。と気にも止めずにいたといいます。

偶然か、産まれてきた子は男の子でした。
まだ名もなき赤ん坊でしたが、まさおと名付けられました。

その後、私の父となる次男が産まれ、ここに私が存在しています。
私の叔父となる、まさおさん。

叔母はそう言っていたこと記憶にもないそうですが、お空にいるときからわかっていたのかなぁと思いました

そして今や、まさに私が出産を目前にしています。

どうか見守っていて欲しいです。

2015.03.03 投稿者:あちゃこ/東京都

去年予定日を3月に控え、お正月も何事もなく過ごした1月。
妊娠の経過も良く、順調に育っていた娘。

一人目は男の子で、この妊娠を教えてくれたのは当時1歳だった長男でした。突然、抱っこ抱っこになりトイレへ行くにも『まま~』と泣いて離れられず。。これはもしや。。と調べたら第二子妊娠発覚!!

そして、1月頭に検診へ行き異常なく育っていました。
それから2、3日後、私が体調を崩し発熱。通院して復活!と思いきや次の日には胃腸炎になり、寝たきりでした。

その時くらいから、今思えば元気だった胎動が感じられなくなっていて、『あれ?今日動かないなぁ』と思う日がありました。変だな、大丈夫かな。。と思いながらも、なぜか病院へ行かず過ごしていましたが夢で

『心拍数が下がってるから帝王切開』と見て一気に不安になりました。
そして検診の日を迎え、今までで一番不安な気持ちで病院へ。9ヶ月に入っていたので、NSTをしました。

が、何度探しても心音を確認できない。。『先生に赤ちゃんの位置を見てもらってから、もう一度やりましょう』と、別室に呼ばれる。

『大丈夫ですよね?』と確認したものの、先生にまず見てもらおうと言われました。そこで、エコーしてもらうと、いつも動いてるはずの心拍数の線が脈を打ってない。一本線。
見てすぐに心臓が動いてない事が私にもわかった。

先生も何度か確認してから、『動いているはずの心臓が動いてません。。』
一気に血の気が引いた。『なんで?どーして?』気持ちが一気に崩れて涙が溢れました。

それから旦那も別室に呼ばれ、私が泣いていたから察知したようで冷静に先生の話を聞いていたが、先生が席を外すと泣き崩れた。たぶん、へその緒が絡んでるとの事。

帰りの車は涙涙でした。その時ふと思ったのが、今まで長男はお腹に話かけてくれてたのに、胎動を感じなくなってからは、お腹にこなくなり、お話は~?と言っても来なくなっていた。

それから二日後、赤ちゃんを出産するため入院。
子宮口を広げる処置、バルーン、促進剤。痛かったけど、娘の苦しさを考えると我慢できた。

次の日、無事出産。涙が止まらなかった。『どうして我が子なんだろ。体調崩したから?イライラすごかったから?』と、自分を責めました。

心臓が止まってからしばらくお腹の中にいたので、むくんで、少し色も変わっていましたが1800グラムのかわいい我が子。抱っこすると、ズッシリ重く髪の毛もフサフサ。
不思議でした。長男も何度も娘をみて、ほっぺを触ったりしていました。

その日は家族4人でお泊まり。なかなか寝付けなかったのですが不思議な事がありました。

突然、子どもの名前が2つでてきたのです。夢か現実かわかりません。
きっとこの子が、私達に残してくれたんだと思います。きっとまた兄弟を連れてきてくれると思いました。

無事火葬なども終え少したった頃、夢に娘が会いにきてくれました。そこでは、私の腕の中で元気に泣いていました。とっても嬉しかったです!

今年1月に一年を迎え、私は今妊娠中です。
予定日も娘と近いです。きっと、お空から見守ってくれているはずです。
元気な赤ちゃんを生めるよう、毎日お参りして娘に感謝しています。

この経験がなければ、赤ちゃんは普通に生まれてくると思っていました。死産という言葉を考えた事もなかったと思います。そして、経験したからこそ、命を授かる事、出産まで何があるかわからない、子どもを生む事の奇跡を考えることができました。

毎日娘に感謝しながら、新しい命と息子を育てていきたいと思います。

2015.02.21 投稿者:天使のママ・北海道

26年11月3日、3人目ができたことが分かった。
正確には、5人目。2度の稽留流産をし、どうしても欲しかった子どもでした。
検診に行くたび心臓が動いているか怖くて怖くて泣きそうだった。

ある検診の日、11週目の時心臓は動いていたが先生がヘルニアがあるな〜と言われた。えっ••••ヘルニアって何ですか?と聞いた。
詳しい事は、言われず午後14時くらいに又来てと言われて病院を後にした。

嫌な予感がした。帰ってからネットで調べると臍帯ヘルニアがエコーの写真とよく似ていた。お腹の外に臓器が飛び出していり病気です。
調べれば調べるほど辛くなった。

もしかしたら、違うかもと思い主人と午後病院に行った。
臍帯ヘルニアだった。なんで、病気になっちゃったんだろう。
涙が止まらなかった。

年明けに大きな病院で見てもらい、同じ診断だった。
主人と親と話し、悲しいけど今回は諦めることにした。
現実を受け止められない自分、何がおこったのか分からない。
信じたくなかったんだと思う。

もう1箇所、大きな病院に行き見てもらい。ここで処置してもらう事にした。
2月2日、午後から入院、夕方から子宮を広げる処置をした。とても痛かった。

2月3日、朝から陣痛を起こす薬を子宮の広がりがあまりよくないがいれることになった。3時間おきに入れた。なかなか子宮が広がらないということで夕方、2度目の子宮を広げる処置をすることになった。
涙がでた。この日の処置は終わり又、明日となった。

2月4日、陣痛剤を入れた時に先生が袋が出てるから破水をするかもしれんと言われた。10時頃、破水。この子と会う時間が近づいてくると思った。だが、この日は産まれなかった。でたくないんだね。ごめんねとお腹に話しかけた。大丈夫、お母さんがいっぱい抱きしめてあげるから出ておいで、、、

2月5日、am2:5お腹が痛くて出血があったので看護婦さんを呼んだ。痛み止めをもらって布団に入って寝ようとしたがお腹が痛くて寝れなかった。

すると、何かむにゅっと出た気がしたのでトイレに行くとへその緒が出ていた看護婦さんを呼ぶと、様子を見てなにかを取りに行った。その時、産まれそうだった、トイレに赤ちゃんが落ちちゃうと思い。片手にトイレットペーパーをおき股の下に手をおくと赤ちゃんが出てきた。温かかった。自分が取り上げた。

am2:45 150g 20cm 男の子(17週)嬉しかった。ごめんね。ありがとう。

赤ちゃんを見せてもらった。痛かったね、苦しかったね。ごめんね。赤ちゃんは
苦しそうな顔をしているように見えた。口も開いていた。
涙が止まらなかった。

旦那といっぱい泣いた。産んであげられなくてごめんね。
でも、何だか悲しいけど、会えて幸せだった。お母さんのところに来てくれてありがとう。
名前を決めたよ。照(てる)目を開けて光りを見ることができなかった照に、沢山、沢山光りが照らされますようにと願って•••☆

お父さんが付けてくれたよ。素敵な名前でしょ。
沢山、抱っこしてあげたかった。離れたくないよ。照、照、何度も名前を呼びたい。大好きだよ照、ずっとずっとそばにいるよ。寂しくないからね。

2月6日、照とさよならする日がきてしまった。
早すぎる、照にチューをした可愛い可愛い可愛い照、ありがとう。お父さんとお母さんは照に会えて幸せだったよ。ありがとう。

2015.02.07 投稿者:照ママ

我が家には現在9歳と本日3歳のお誕生日を迎えた2人の娘がいます。
そして、その間に息子がいました。
戸籍にも残らない存在ですが確かに私のお腹の中に10ヶ月存在し、しっかりとその間生きていました。

何も問題なく、臨月まで育ち、直前の検診まで順調に育っていた息子は
突然私のお腹の中で生まれる前にお空へと帰ってしまいました。

普通に妊娠して、妊婦生活を送り、臨月を迎え、長女と同じように生まれてくるとしか思ってなかった。

破水して、病院へ迎いウキウキした気持ちは心臓が動かないエコーを見ると、一気に地獄へ落とされた感じがした。

「どうして?なんで?」

その言葉だけが頭の中を巡っていました。

死産って、まさか自分の身に起こることなんて想像していませんでした。
決して泣かない我が息子を産む辛さは今でも思い返だけで苦しくなります。

「どうして?なんで?」の答えを求めて当時さまよった挙句、『うまれる』に出演した椿ちゃんの存在にたどり着きました。私だけじゃない、そう思えて生きる力になりました。
その後、次女を授かり無事出産し、本日3歳となりました。

でも、未だに心の病と闘う毎日です。
命を宿すとは、親となるとは、産む(生む)とは、育てるとは、生きるとは。

死産したことで負った心の傷はだに消えず、何年経っても闘病中の毎日ですが
「当たり前」が、決して「当たり前ではない」というありがたさを感じ
子どもたちの誕生日の度におめでとうよりもありがとうと言葉をかけるようになれたのは
『産まれた』けど『生まれてこなかった』息子のおかげだとおもいます。

多くの方が、今、そばにある命を当たり前と思わずかけがえのないものだと大切にして欲しいとおもいます。
奇跡なんです。
生れて育って生活していることって奇跡の連続なんだって感じて欲しいとおもいます。

2015.01.31 投稿者:kmeg

はじめまして。
妊娠・出産とは人それぞれあるドラマですね。
私のドラマも聴いていただけたら…と思いメールさせていただきました。

私は現在38歳。

これは19年前の妊娠の話になります。

19年前の9月25日は

わたしの息子が産まれた日です。

当時19歳で家出中のわたし。
相手は11歳離れた彼で無職。

でも、わたしは彼と結婚するつもりで
望んだできた赤ちゃん。

できた!

ってわかった時は
今でも忘れられないぐらいドキドキして…ただただ嬉しかった。

でも…それからが

いろんな感情を味わった日々だった。

無職の彼は仕事してくれず…
2人で彼の実家に住み、病院代や生活費はわたしの持ち物を一つづつ質屋に入れて…

おまけに日々エスカレートしていく彼の暴力。
姑さんからのいじめ。

本当ドラマのような日々…

それでも父親として赤ちゃんが求めている‼ と思い、殴られても蹴られても…胎動は感じる。

この子だけは守って行けたらいい!と産婦人科の先生や看護師さん、母から反対されても彼と意地でも離れないでいました。

妊娠7ヶ月…彼はまだ無職。

とうとう彼の実家からも追い出され車の中で生活が始まりました。

一日に使える金額は2人で300円。

缶ジュースのお得缶を1人1本
(当時110円で500ml入ってたやつ)

袋に何個か入ったお得用パンを2人で1袋。

今思うと、妊娠中なのに“なんちゅー生活‼”ですが、当時は、ただ一生懸命でした。

お金がないとイライラしたりで些細な事から喧嘩。

その日は彼がわたしの上に馬乗りになり、お腹を殴った…

池に入れと髪を掴まれて淵まで引きづられた…

フッと

何やってんだろう…

こんな人いなくていいやん…

って初めて心に決めれた。

帰る。

って逃げ出した。

引き止められ、翌朝荷物と一緒に送るから。と言われ翌朝、自宅じゃなくそのまま病院に送ってもらった。

理由はお金がなく定期健診に2ヵ月ほど行ってなかったから。

胎動を感じなくなってる気がしていた

診察費の後払いをお願いして診察に。

先生から出た言葉は

“すぐ大きな大学病院(九大病院)に行って”

なんで?と聞くと

赤ちゃんの心臓の動きが弱く羊水が赤ちゃんの頭と体に溜まっている。

と。ハテナが頭をいっぱいになりそのまま大学病院へ。

到着と同時に車いすに乗せられ、向こうから15人ぐらいの白衣を着た研修医の軍団が。

まさか・・・の予感は的中。

検診台の上に下着を取った私が横になり、股元に15人ほどの男性研修医・・・

一人ずつ指を入れられての内診・・・

恥ずかしいの言葉も出なかった。

とにかく早く家に帰りたい・・・

その願いは届かず即入院。

今日から一切歩いたらいけません。

ご飯もダメ。飲み物もダメ。

お腹には24時間赤ちゃんの心拍をとれる機械を巻きつけられ・・・

わたしが動いたら心拍がとれないからと

両手・両足をベッドに縛られて・・・

代わる代わる出入りする研修医さん。

きついでしょうがジッとしてて下さい。

とだけ言い残して去っていく。

その姿で一晩過ごし次の日染色体検査をします。と検査室へ。

お腹に麻酔をし、長い針で羊水を採取するという検査。

・・・これが地獄だった。

パンパンに張ったお腹を出しそこへ針が・・・うまくいかない。

10分…20分…30分…

1時間…2時間経過。

お腹は針が刺されすぎて血だらけ。

1番偉い先生が…

あー!!イライラする!!

今まで死にかけていた赤ちゃんがこんな時に動き回ってから!!

普通5分もかからんのに!!

焼酎切れてきた!とりあえずタバコ休憩!

と言い研修医軍団と笑いながらいなくなった。

わたしは、お腹を出したまま…

初めて涙が出た。

悔しくて、寂しくて、悲しかった。

そこへ担当の研修医さんが入ってきた。

お腹に毛布を掛けてくれて、辛いでしょう。今のは酷いですね。

僕…怒られる、イヤ…この病棟から外されてしまうでしょうが、今日帰りましょうか?

内緒で夜退院手続きしますから。

と夜逃がしてくれた。

外に出ると秋祭りがあっていた。

賑やかな人達とわたしの心のザワザワ…

とても前を向けなかった。

見たくなかった。

赤ちゃんのこと・・・

もうどうしたらいいのか全くわからない。

とりあえず彼が迎えにきたので彼の家へ。

あ、母ちゃんがカレー作っとってって。

えっ?動いたらいかん私が?

それと生まれても身体障害者になる子供はうちにはいらんって。

・・・え?

・・・今なんて言った?

もう狂いそうだった。

大学病院の先生も
生まれても呼吸うまくできないでしょうから、亡くなるでしょうね。
治療費、入院費はいらないですから死産したら解剖させて下さい。

え?

なんなんみんなで・・・。

味方は誰もいないの??

って。

みんなの顔を見れなかった。

見るのが怖かった。

次の日、以前かかっていた産婦人科へ。

先生が

子供は神様やったんやね。
あなたが彼と別れきらないから
身をもって別れさせたかったんよ。

僕がいなくなったら別れてくれるだろう。
思ったんだろうね。

ハッとさせられた。

この子の心臓が動いてるうちは
わたしも闘いたい!

と先生から医学書を貸してもらった。

本当に?

本当に見るの?

ショックを受けるだけだよ。

と言われたが、読んだ。

バカなわたしが助けられる方法を見つけたくて…
息子の痛み・苦しみを知りたくて。

息子は“胎児水腫”という病気だった。

体だけではなく、頭(頭蓋骨と皮膚の間)にも水が溜まっていて生まれても脳に障害を持つことが分かった。

命も短いことも分かった。

本当に本当にわたしは・・・とんでもない事をした。

あの子が実の親から虐待されていたのに、わたしの勝手で一緒にいた。

痛かっただろう。
怖かっただろう。
寂しかっただろう。

そして私はその大学病院でもない、かかりつけの病院でもない産婦人科へ行った。

息子を解剖から避けるために…

もう痛い思いはさせたくない…

平成8年9月25日

妊娠8カ月。

体重1700グラムで出産した。

死産だった。

顔は・・・一切見せてもらえなかった。
哀しみが倍になるから。と。

もうここは地獄なのに…これ以上なんて。

彼とは別れた。
最後は病院代の事で
病院の待合室で…
生まれてもこない子に一銭も出さないから
と鬼の形相で言われた。

それから17年経ち

生理の具合も良くなく、病院に検査に行った。

病名が出た。

多嚢胞性卵巣症候群。

一年かけてピルを飲んだり、ホルモン剤を飲んだりを繰り返して治療をした。

結果

治らなかった。

先生に、もう私、子ども諦めた方がいい?
独身だし、仕事も持ってるからそれならそれでいーよ!

というと
先生は卵子年齢もあるし、健康な卵子が残ってないかもしれない。

こればかりはわからないから、妊娠を望んだ時にまた調べよう。

という答えだった。

…しかたない。

もう私は一人で生きていこう。
と決断した。

それから3ヶ月後、ある男性と知り合った。

彼はシングルファザーで、3人のお子さんを育てていた。

話していくうちにどんどん惹かれていった。
家族が住む家に行き、紹介された。

娘さんと初対面。話は誕生日の話に。

誕生日いつ?

9月25日‼︎

…え?

死んだ息子と一緒…。

歳は一つ違いだったけど、365日の中の一緒の誕生日。

すると彼が
今度から9月25日は悲しい日じゃなく
一緒にお祝いできる日になったね。

と言ってくれた。

涙が止まらなかった。

今まで一人で泣いていたのが、みんなで笑える日になるんだ。

息子も祝ってもらえるんだ!って。

それから彼とお付き合いが始まり、彼の3人の子どもさんとも仲良くなった3ヶ月後。

妊娠した。

嘘のような話だけど
今の私のお腹には
あと20日で生まれてくる命が宿ってる。

これは自分が過去に向き合えたから?
神様がご褒美くれたのかな…(笑)
って思います。

2015.01.18 投稿者:ばんこ/福岡

第2子を流産して1年が経ちました。

結婚してすぐに長男を授かることができました。どちらかといえば仲間内では早い方で、息子が1歳になる頃、私の周りでは1人目のベビーラッシュが訪れました。

同時に、バリバリ働いている友人達も羨ましく、早く2人目が欲しかった夫を説得し、パートでしたが仕事を始めました。パートとはいえ、就職してすぐに妊娠しては迷惑がかかると思っていたので、1年くらい経ったら2人目を考えようかなと思っていました。長男がすぐに授かったので、2人目も望めばできると甘く考えていたことは否めません。

結局1年後、転居の関係でパートは辞めることになってしまったので、本格的に2人目を考え始めました。早生まれの長男が2歳になった春のことでした。

その後、なかなかやってこないなーと思いながらも、映画「うまれる」との出会いもあり、自主上映会してみたいと思った冬に、待望の第2子を妊娠することができたのです。
その頃、外回りもたまにある在宅での仕事を始め、最初から上司には妊娠を希望している旨を伝えていました。

年明けに、心音を聞きましょう。

と言われた次の日、最後の仕事をする日の朝、お腹が少し痛い感じがして、うっすらと出血。病院に電話したところ、様子をみてくださいとのこと。仕事は、2時間ちょっとの外出だけなので予定通りこなし、帰宅すると、痛みが増してきたような気がしました。同じことを言われるとわかっていながら再度病院に電話。やっぱり様子見と言われ、夕飯作りを夫にお願いし、みんなで夕食を食べ終わったあと、お腹に異変を感じ、トイレに行くと塊がどろりと落ちていきました。その瞬間、

いってしまった

と思い、夫を呼び、病院に電話。

来てくださいと言われ、病院で確認したところ、前日まで見えていた袋がいなくなってました。あぁ。やっぱりそうだったんだ。という気持ちと流産は起こりえるから仕方がないという気持ち。どこか理解はありました。

長男がいるので自宅で回復に努めることにし、帰りの車で実母に報告。ダメだったよ。と涙が出ました。

帰宅して、張り詰めていた気が緩み玄関で夫に、

なんで?
ごめんね。
また来てくれるかな。
大泣きしました。

処方された薬には「妊娠時禁忌」と書かれており、服薬するたびに現実を容赦無く突きつけてきました。

進行性流産

その言葉を何度もネットで調べました。
そして、再び我が家に来てくれることを願いました。

しかし、もともと不順だった生理はちゃんと戻らず、春に婦人科を受診、それと同時に、咽喉部に原因不明の腫れができ、MRIやCTで検査。(結局悪性ではないけど原因不明ということでした。)

妊娠できるよう、それまでまばらだった基礎体温も毎日つけ始め、食事などにも気をつけていきました。

基礎体温も落ち着いてきて、自己流でしたがタイミングをみたりしましたがなかなか授かりません。

その一方で、流産したこともあり、映画「うまれる」自主上映会への気持ちも強くなり、周りの協力のもとその年の秋に実現させました。きっとあの子が来た理由は上映会をやるためだと思いながら。

もし、流産していなかったら夏の出産だったので上映会をやりたいと思ってもできなかったでしょう。そういう意味でもあの子はそういう使命を持って私たちのところにきてくれたんだとも思うようになりました。そして、それを達成できればまた赤ちゃんが来てくれるという下心も実はあったりしました。

夫も、授かる時は授かるよ。きっと時期をみてるんだよと。
その言葉は私の支えにもなりました。

けれど、その気持ちを砕くかのように。
私の後に出産した友人達が次々と2人目ができたという連絡。本当に、ほぼ全員が。
その嬉しい報告を聞くたびに、そして、生理が遅れて来るたびに何度も
どうして、どうして。

私に、私たちに何が足りないのか。
彼女達よりも何が劣っているのか。
劣っているなんて表現はいけないと分かっていてもそう思わずにいられない。

仕事を始めたばかりで妊娠するという私からすれば無責任にも感じる友人もいれば、ご主人が喫煙者という方もいました。私の夫はタバコも吸わない。

私はもともと嫌煙家ということもあったので、子どもがいるのになぜタバコをやめられないのか、理解ができませんでした。極端に飛躍し過ぎかもしれませんが、なぜタバコをやめられない家庭に子どもが宿るのか。それすら私を追いつめるものでした。

そして、もうひとつ、「(2人目は)もう少し後でも良かったんだけど」というセリフ。
なぜそういうことが言えるのか。私はきて欲しくてたまらないのに。
Facebookでの出産報告が憎らしくてたまらない。

悪意が無いことは分かっています。
その度に自分がこんなにも小さな人間だったのかと気づかされてさらに傷つく。

悪循環、そのものでした。

ふと、我に返ると、私もそういうことを軽々しく発言してきたのかもしれません。
私より先に結婚して、私より後に1人目を出産した子もいましたから同じように思っていたかもしれません。もしかしたら、私が知らないだけで流産を経験した友人もいるかもしれません。流産は15%、私がその15%に入ったのだから周りはこんな思いを経験しなくて済むんだと思ったこともあります。

咽頭での通院もあったのでこの1年はそういう年だったのかもしれません。
日々成長する長男を怒ってばっかりだからから、この家、なんか怖いって思ってやってきてくれないのかなとも思ったこともあります。

子どもを欲しくても授かることができなかった方々は世の中にはたくさんいるのだから、長男がいるだけで良いのだと考えたこともあります。

でも、なぜそれが私なのか。
という思いは消えない。

夫の希望通り早く2人目を考えていればこんな気持ちにならずに済んだのにと悔やむ気持ちと夫に対して申し訳ない気持ち。

様々な気持ちの浮き沈み。

とても辛い年でした。
本当に。

年が明けて、生理がきたら婦人科に行こうと思います。

私の中で今だに気持ちの整理はつきません。

いつか、いつかまた我が家に新しい命がやってくることを願って。

今年の最後にこちらに投稿して明日から新しい年、家族と共に歩んで行きたいと思います。
長くなってしまってすみません。
読んでくださりありがとうございました。

2014.12.31 投稿者:ひまわり

2013年11月9日土曜日 午後19:18

体重 890g
身長 36.2cm

私たちの第一子、長男、
天使になった息子を普通分娩にて出産致しました。

11/5 夜中 胎動をあまり感じなくなる。
11/7 病院にて心音がないことが発覚。子宮内胎児死亡を宣告。
11/8 入院。麻酔なし子宮口開大処置開始。4時間ごとに3回。
11/9 陣痛促進剤3時間ごとに3回。陣痛開始。子宮口全開大。会陰切開。普通分娩にて出産。
11/11 退院。
11/17 火葬。
11/23 供養。

原因不明。

30週0日。妊娠8ヶ月。妊娠後期死産。安定期を越えての死産は100人に0.6人。

全く考えもしなかった出来事に、夫婦で泣き狂いました。なぜ私たちが?なぜ息子が?そんな答えのない質疑応答を自分自身の心の中で思い、自責の念にかられたり、、、

今でも毎日急に悲しくなって、泣いてしまいます。

自分の子を亡くした母親の絶望感は想像を超えます。

亡くなった子がお腹にいる、ふくらんだお腹を見ること。8ヶ月の歳月を1分1秒共に1つの身体で過ごしてきた思い出。出産をしても泣き声は聞こえない。手のひらに指を置いても握り返してはくれない。母乳を止める薬を飲むこと。産まれた日がこの世では亡くなった日。人生最大の悲しみでした。

1日がかりで子宮口を広げる処置をしましたが、普通鎮痛剤を使うみたいですが、鎮痛剤なしで行ってもらいました。
陣痛も包丁でめった刺しにされるよりも、トラックで腰をひかれるよりも、痛いだろうと思われる痛み。

でも身体の痛みはいくらでも我慢できるけど、この心の痛みは我慢できないと思いました。

でも、母親になれて本当に良かった。この8ヶ月間は今までの人生で一番幸せだった。自分の子だからか、、、?こんなに可愛い赤ちゃんを初めて見ました。目と口は私似。鼻と耳はパパ似。髪の毛も結構生えていて、手足もしっかりしてて、爪は伸びてて。

本当に、本当に、世界一可愛いと思いました。

息子は愛される世界しか知らないで天使になりました。人間の醜さ、妬みや恨み、汚いこと、など全く知りません。私の暖かく居心地の良いお腹でたくさん遊びながら、愛されることだけを知って天使になりました。

あなたのママにしてくれて、ありがとう。
産まれてくれて、ありがとう。
産ませてくれて、ありがとう。

ママはずっとあなたのママだよ。
あなたはずっとパパとママの第一子だよ。
戸籍にはのらないけど、長男だよ。
弟や妹ができた時にはお兄ちゃんのこと、ちゃんと話すよ。

愛と命の大切さを教えてくれて、ありがとう。

天使のブティックという天使ちゃんへの服を作る、天使ママの会に参加するようになり、だんだんと心の傷が癒えました。
そして、仕事もできるようになりました。

人生初の試み、天使ママの為の曲「天使が私にくれたもの」の作詞もさせてもらいました。

あれから1年が経ち、その間に不育症の検査をしました。

こんなに若くて(20代)死産ということは、何個もひっかかるだろう、と不育症専門医のベテラン先生から言われました。

しかし結果は現在研究段階の12因子が➕1だけでした。

あとは何もなかったので、妊活を始めましたが、なかなか授からず、1年が経過。

死産を立ち会いしてもらったのですが、その光景のショックからか、主人は夫婦生活が持てなくなってしまいました。

不妊外来へ行き、すぐに人工授精へトライしよう、となりましたが、
主人(40代)の精液検査をすると、量、質、数、濃度、運動率、全てにおいて最悪な結果。

人工授精1回目をしましたが、このままだと顕微受精しか難しいレベル、とのこと。

自分の子どもを亡くすという人生最大の悲しみを経験したのに、なぜまたこんな試練を与えるの?神様って本当にいるの?神様って意地悪。。。そう思ってしまいますが、これから高度不妊治療に進むのか、どうするか、先生と主人と決め、また一歩ずつ進んでいっているところです。

2014.12.08 投稿者:あやかママ/神奈川県

2012年11月13日。
待望の第二子を妊娠していました。
安定期に入ってから、初めての検診の日でした。

当時二歳の息子と、地下鉄に乗りいつもの病院での検診。エコーで久々に見られる私たちの赤ちゃん。
楽しみにしていました。

ですが、医者から言われた言葉は想像していたものとは違っていて

「頭の形が不鮮明で、もしかしたら障害があるかもしれない」とのことでした。

出産予定の大きい病院で、すぐに確認して来るように言われ、何が何だかわからない私は、息子の手を引いてタクシーで病院に向かいました。

長い待ち時間の後、ようやく診察してもらい、希望が絶望に変わりました。

「赤ちゃんは、『無頭蓋症』です。」「生むか生まないか、早く決めなくてはいけません」
そう言われたのしかよく覚えていません。頭の中が真っ白で何も考えられず、その日は主人と息子も辛い気持ちでいっぱいだったと思うのですが、明るく振舞ってくれていました。

翌日、もう一度主人も一緒に病院に行き、今後のことを決めました。

私たち家族の大事な赤ちゃんのことなのに、まだ私は頭が真っ白で、医者や主人が勧めるがまま、赤ちゃんを人工死産する手続きと、入院の手続きなど、事がどんどん進んでいきました。

「無頭蓋症」という、初めて聞いた障害をパソコンで調べ、同じ悲しい経験をされた方のブログなどを見せていただき、赤ちゃんを頑張って出産しよう。と少し前向きになれました。
出産日は11月21日に決まりました。本当の出産予定日は4月21日でした。

入院までに、まだ行ってなかった安産祈願と、少しでもお腹の赤ちゃんに幸せを感じてもらいたくて、美味しいものをたくさん食べたり、息子の出産前にした事と同じことをしました。

人工死産の処置は予定通りにいかず、赤ちゃんは予定日に出てこれず、22日に出産しました。
待望の女の子でした。
小さい小さい私たちの赤ちゃんは、生まれてすぐに息を引き取りました。
その後、退院し火葬をし、一か月たたないうちにお墓に入れてもらいました。

私は「次は絶対元気に生まなくちゃ」と前向きになれていたのですが、その後、なかなか胎盤が出てこず、通院が続いていました。

産後一か月の検診でも胎盤が残っており、「おかしい」という事で急きょ処置をすることになったのですが、その時私の子宮は大量出血を起こし、救急車で大学病院に運ばれ、一命は取り留めたのですが、その後の入院中に、重度の癒着胎盤が判明しました。

なんとかもう一人赤ちゃんを育てたい気持ちが強かったので、子宮を残せるように二か月入院したのですが、子宮を残そうとすると、私の命が大変危険という事がわかり、泣く泣く子宮摘出手術を受けました。

それが2013年1月28日でした。

もしも、娘がちゃんと生まれていたら、もしも子宮をとらずに済んでいたら…。

もうすぐ二年がたとうとしている今も毎日考えてしまいます。
優しい絵本をたくさん読み、周りで生まれてくる新しい命に対する嫉妬のような感情も、最近は少しはやわらいできたと思いますが、まだまだ平気なふりをしているところです。

今年8月。「うまれる」を初めて観せていただきました。

前から気になっていましたが、なかなか観る勇気が出ず、やっとです。
映画を観て、やっと娘のことを前向きに考えられそうな気持になりました。

主人と、もうすぐ5歳になる息子と、私はいつも笑顔が絶えないあたたかい時間を過ごしています。

みんなには見えないけど、私には娘もいました。今も心の中に生きています。
できたら、もう一人育てたい気持ちが強く、今「里親登録」をしようかと主人と息子と考えています。

長くなってしまい、申し訳ありません。

11月22日は娘の命日です。お墓参りに家族で行きます。どうか晴れますように。

2014.11.12 投稿者:さち/宮城県

結婚二年目の春、妊娠したことが分かった。
とても幸せだった。私は当たり前のように10ヶ月後に出産だと思ってました。

妊娠10週の検診で赤ちゃんの頚部浮腫があることが分かり、12週で浮腫みは10㎜になりました。でもエコーにうつる赤ちゃんは、元気にピョンピョン飛び跳ねたり動き回ってたり本当に可愛かった。

大きな病院に変えた14週の頃、胎児水腫と診断されました。
18週5日で羊水検査の結果は、ターナー症候群と分かりました。

とうとう水腫がひどく胸にも水がたまり、赤ちゃんの命はいつ終わるかも分からないと医師に言われました。赤ちゃんの命をその寿命を、お腹の中で見守っていく決断をしました。

またターナーであることから女の子なので、主人が決めてた名前凛々(りり)と名づけました。毎日名前を呼び、お腹が重たい妊娠期間を大切に過ごしてました。

凛々がいるお腹を見るのは幸せだった。無事に生まれないのならもうずっとこのままお腹にいてほしい。そう思っていました。

妊娠6ヶ月に突入して、どんどん大きくなるお腹。
もしかすると、このまま何とか大きくなってくれて臨月近くまで過ごせたら、今の医療ならたとえ1日でも良いから生きた姿を見られるんじゃないか。抱きしめられるのではないか。
そしたら急いで戸籍に入れたい。そんな期待を抱いてました。

23週と3日の検診は、数日前に胎動を認識してたこともあり、赤ちゃんは生きてると安堵して検診へ向かいました。いつもならすぐ見える心臓のチカチカした動き。
それがすぐ見当たらない。なんの動きもないエコー画面に私も違和感を感じました。

そして医師から「心臓が動いてないね」と告げられました。
覚悟はしていた。していたのにまさか今日だとは・・・「胎動を感じてたのに」というと「うーん・・腸が動いたのかもしれないね・・」と。

いつ死んじゃったのだろう。昨日?一週間前?あれは胎動ではなかったのか。

横のエコー室から元気な赤ちゃんの心音が聞こえてきました。
その瞬間切なくて切なくして仕方がありませんでした。
私は泣きながら横のエコー室に泣き声がもれないよう、冷静さをとりもどそうと必死でした。

頑張って生きた凛々。凛々の大きな冒険は終わりました。
よく頑張ったね。
胎児水腫で23週なんてすごいじゃない。本当に偉かったよ。

心の中で何度も凛々を褒めてました。

そして24週6日で凛々を出産しました。
病室は分娩室にもなる部屋で移動は必要ない部屋でした。3日かけて子宮口を広げ出産へ。

時間をあけて3回程、陣痛促進剤を入れて夕方頃だろうという予定だったのですが、一度目の陣痛促進剤を入れてからすぐ破水し、陣痛は突如急減に最大限の強さになりすぐに1分間隔になりました。

主人が必死に腰をさすってくれる中、私は痛くて痛くて叫びつづけてました。助産師さんが「まだ力まないでね!」と言っていたのでただ痛みに耐えていたのですが、強い痛みの波がきてその瞬間凛々は生まれました。

あまりにもうスピードすぎて、分娩体制が完璧に整う前だったので主人もその場におり、計らずも立会い出産となりました。

私は死産だと覚悟はしていたのに、元気に生んであげれなかったことが申し訳なくてつらくて泣きながら「ごめんね」と言いました。
主人が抱きしめてくれました。その包み込むような強さと優しさが、私の支えでした。

きっと凛々は、お父さんが大好きでお父さんの目の前で生まれたかったのだろうと思いました。また血圧が高い私のために、極力短時間で出てきてくれたのかもしれません。とても親孝行な娘です。

主人は娘を一番初めに見てくれて、看護師さんと共に娘に用意してたものを着せてくれました。死産を覚悟してから、またお腹の中で亡くなってからも母や主人の協力を借りて娘のためにはじめての衣類を作ってました。娘の好みを想像しながら、きっと喜んでくれると笑顔を想像しながら作ってる時間だけは落ち着いていられました。

私が対面したときは、作ったおくるみを来て作った帽子をかぶってました。
帽子からも浮腫みは隠しきれず、後頭部の大きな浮腫みのため顔は正面を向けず左下を向いてました。顔はとても小さく目はとじており、小さい鼻に小さなお口しっかりと出来上がってました。

「お母さん似ですね」と言われました。
身長26cm、体重405g。抱きかかえた感覚を今でも覚えてます。

新生児とは比較できない程、皮膚の色も何もかも違いました。
それでも、今思い返しても愛しくてたまりません。

死産ではあったけれど、まるで一生分の光を放ち、私達夫婦の価値観や人生観をみごとに変化させるほど、強烈なものを与え誕生したのです。

その翌日、火葬をしました。
あの日の記憶は辛いものです。心が引き裂かれ苦しくて悲しくてやりきれない思いで一杯でした。主人にすがりつき、泣くことしか出来ませんでした。

小さな小さな骨になった娘を可愛い骨壷に入れて、これからはずっと一緒に暮らせるよと自宅へ帰りました。

なんだか長くてあっという間な妊娠期間が終わり、まるで全て夢だったかのような気持ちになることもあります。でも出産時の子宮口を開く処置のあの痛みや、陣痛の苦しさ、凛々が出てきた感覚、それらの記憶が自分は出産したんだと再確認させてくれてる気がしました。

凛々の親になれたことは、本当に幸福なことでした。
私達夫婦にさまざまな事を教えてくれました。私達は3人家族になれました。

戸籍には入ることが出来なくても凛々は紛れもなく、はじめての子供です。

今は娘の全てが想像つきます。彼女はきっと勝気で好奇心旺盛でいたずら好きな女の子でしょう。でもちょっと照れ屋でおませさん。お腹の中からのそんな印象をなぜかもっており、凛々は私達夫婦の心にしっかりと根を下ろしているのです。

いつか自分の人生を全うしたら、天国へ行き主人と私で凛々の子育てをしよう。
この世界で叶えられなかった全てを娘にしてあげよう。

もしくはその前に凛々がまたお腹の中にもどってきてくるだろうか。

娘のことを綴ったり、可愛い仏壇の前で話したりしながら今の時間の上を歩いていきたいと思ってます。
凛々はたくさんの幸せに気づかせてくれたから毎日を大切に生きていきます。

2014.10.11 投稿者:ネロマル/北海道

妊活を初めて10ヶ月、待望の第一子を授かりました。
初めての検診で、子宮内外同時妊娠の可能性を言われました。
子宮内外同時妊娠とは、子宮内での正常妊娠と、子宮外妊娠を同時にする事。双子の赤ちゃんだと、こうなる事もあるらしく、だけど確率としては何万人に1人と非常に稀な出来事です。

言われたその日からネットでひたすら調べる日々。 
中には、子宮外妊娠の手術をしても、子宮内の子は妊娠継続して無事出産したというケースもありました。
私は病院でもしも子宮内外同時妊娠だった場合、子宮内の赤ちゃんも諦めてと言われていました。
だけど、どうしても諦めてられず、その診断が確定した時は他の病院を探そうと決めていました。
次の病院までの期間、ただただ泣いてばかりで、周りにも手術をした事によって、子宮内の子に障害が残ったらどうするのか?今回は諦めなさい。と言われていて悔しくて悲しくて、
だけど、私の気持ちは変わりませんでした。
それでも、子宮内外同時妊娠じゃない事が一番の願い。
子宝、安産、母乳に関係のある神社3社を周り神様にお願いしてきました。

そして、病院の日。
結果、子宮内外同時妊娠ではないという診断でした。
旦那と泣いて喜びました。
その後も赤ちゃんは順調に成長してくれて。。
妊娠7ヶ月のある日、胎動を感じないのを不安に思い病院へ行きました。
赤ちゃんは大丈夫。順調ですよって言ってもらえる事を信じて、ただただ赤ちゃんが元気なのを確認して安心したかった。
そんな気持ちで病院へ行ったのに、医師から言われた言葉は「赤ちゃん、動いてないね。」
言われた時は意味が分からず、寝てるのかな?くらいに思いました。しかしそうではなかった。
「赤ちゃんのね、心臓が止まってしまっているの。」

止まってる?心臓が??
ハッキリ聞いた後も、しばらくは意味が理解出来ず。
頭の中が真っ白になっていて、どう反応したらいいのか。全く分からなくなっていました。
やっと出た言葉は
「どうにかなりませんか?また、赤ちゃんの心臓が動き出すって事はないですか??」

この時まで、私は死産というものを知りませんでした。
安定期に入ったら順調に育って生まれるのが当たり前だと思っていました。
本当に無知でした。

7月18日。
子宮内胎児死亡の診断を受けた日。
赤ちゃんが亡くなってしまった日。

その後、先生は一度私を家へ返してくれました。
心の準備をする時間をくれました。
二日後の20日、入院して、処置をして、破水から自然陣痛に繋がってくれたので、陣痛促進剤は使わず出産出来ました。
親思いのとても優しい子でした。
21日、早朝に小さな息子が生まれました。
ツラい陣痛に耐えて生んだのに、産声も聞こえず、おめでとうございますの言葉もなく、とても静かな静かな出産でした。

とても可愛くて、愛おしくて大切な赤ちゃん。
どうして心臓が止まってしまったのだろう。
胎盤もへその緒も異常なし、赤ちゃんの外見からも奇形は確認されず、原因不明。
解剖すれば分かるかもしれないと言われたけど、断りました。
解剖なんて。こんな小さな体に、メスを入れるなんて。

出産した日の夜、旦那が病院に泊まってくれたので、赤ちゃんと三人で最初で最後の夜を過ごしました。
とても大切な時間。大切な思い出。

次の日、赤ちゃんと私は退院しました。
その足で火葬場へ行きました。
火葬の扉が閉まる時、一緒に中に入ろうとした。
点火のボタンが押せなかった。
旦那に押して貰ったけど、そらを見てられず、ずっと下を見てた。
大切なお見送りなのに、見てあげられなくて、ごめんね。。

火葬場の方が上手にやってくださったので、残らないだろうと言われていた遺骨を拾うことが出来ました。
灰だけになっても全部拾ってつれて帰るつもりでいたけど、遺骨が拾えて良かったです。

その後遺骨を持ってお寺へ行き、家族で最後のお見送りをしました。

夏だった事、赤ちゃんがあまりに未熟で傷みが早いので先に火葬を。との事だったので、順番は逆だけど、こうしました。

しばらくは何も手をつけられず周りに頼りっぱなしの日々でしたが、いろんな本を読み、同じ経験をした方のサイトを見たりなどして、気持ちを整理しました。
その後働きに出てしばらくして再び妊娠。

お腹の子の出産予定日は、息子の心臓が止まってしまった7月18日でした。

こんな事があるのかと、本当に驚きました。
妊娠中は毎日お腹の子は生きているのか心配で心配で気が休まる時はなかったけれど、予定日の一週間前に無事元気な産声を聞く事が出来ました。

来年年明けには長女もお姉ちゃんになります。
元気な産声が聞けますように。

長々と申し訳ありません。
読んでくれた皆様、ありがとうございます。

また、流産、死産を経験された方が、それを乗り越え、どうか幸せに、笑っていられますように。。

2014.08.31 投稿者:Natuki,AyakaMama/岐阜県

6月3日。第三子を流産しました。

妊娠発覚後、5週になるところで胎嚢が確認できず、7週でなんとか心拍確認。6週前半くらいの大きさかな?でもまだ誤差があるころだから。と医師に言われ、なんとなく違和感を感じていました。

それから1週間後、トイレへ行ったときに、ペーパーに色がついているような。。。?まさか。
その後、度々トイレに行くと、その色は濃くなっていき、出血であることがわかりました。まだ初期だし、ネットでもこのころは少量の出血があることもある、と読んだので、病院も診察時間外だし。。。と悩みましたが、念のため電話をして確認することに。

状況を話すと、時間外であるにもかかわらず、診ていただけることになり、すぐに病院へ向かいました。
その間も、まさかね。。。でも、もしかして。。。と、葛藤。
総合病院で、複数の先生がいるにもかかわらず、第一子からお世話になっている先生が診てくださいました。

映し出されたエコーの映像。

すぐに、わかりました。

胎嚢は見えるけれど、先週見えたはずの、心臓のピコピコがない。

「うーん。。。今回は、流産かなぁ。。。」

とてもさばさばとした先生ですが、重いトーンでした。

覚悟もしていたからか、あぁ、やっぱり・・・。という気持ちで。
一人での受診でしたが、取り乱すこともなく、とても落ち着いた自分に、少し驚きました。

一応、三日後に、もう一度確認してみて、変わりなければ月曜日に手術をしましょう、と言われ、待合室へ。
時間外なので、ほかの患者さんはおらず、数名の看護師さんがいました。
「ダメでした。」と、私が話すと、「そっかぁ。。。」と、肩を落としてくれて。少し、一緒に話を聞いてくれました。

絶対に自分を責めないでね、原因なんてないんだから。と。
その後の体の変化も、こんな風になる人もいれば、こういう人もいる、どんな状況でも、もし辛ければいつでも電話してね、と。

すぐに旦那へメールで報告。お互い、身近に流産経験者がいたこともあって、また、がんばろうね、と。

それから、だんだんと出血が増えていき、生理痛のような軽い痛みと、陣痛の時の肛門を押される感じ、腰痛がありました。
あー、これは、陣痛だ。私、初めて下から出産できるんだ。
そう思いながら、トイレで流れ出る血を眺めていました。

二人の子どもたちは、帝王切開での出産でした。二人目の時にVBACを希望しましたが、児頭骨盤不均等の可能性があるために、予定帝王切開となり、もう経膣出産はできないんだな、とあきらめていたのですが、
もしかしたら、今お腹にいる子は、私に経膣出産を経験させてくれるために宿ってくれたの?と思うようになりました。

進行流産はとても痛く、辛い、というブログをいくつも見ましたが、それがこの子を授かった意味だとしたら、がんばろう、しっかりと、産んであげようと、思っていました。

ですが、痛みは本当に軽い生理痛程度。胎嚢も、いつの間にか出ていたようで、よく日には出血量も減っていき、金曜日に受診したときにエコーで見たら、子宮は空っぽになっていました。

全部出たみたいだね、手術は必要なさそうだね。と医師から言われ、ふっと、肩の力が抜けたのを覚えています。

私、初めて下から産めたんだなって。
赤ちゃんの姿を見ることができなかったのは残念ですが、それも親思いの子。もし、見つけたら、ママ、手放したくなくなるでしょ?って言っているのかなって。

看護師さんからも、親孝行な子だねっていわれました。本当にそう思います。
痛みもなく、するりと出てきてくれて、さら~っとお空へ帰って行ったんでしょうね。

私に似て、せっかちな子だったから、何か忘れてあわてて取りに行ったんだろうな~。
ありがとうね。楽に産ませてくれて。
でもね、少しくらい痛くったって、辛くったっていいから、元気な声を聴かせてくれることが、ママの一番の喜びなんだよ。今度は、大きくなった姿を見せてね。笑い顔も見せてね。また、いつでも帰っておいでね。

そう、おなかをさすりながら、空を見上げている日々です。
悲しくないわけではありません。でも、悲しんではいません。
いってらっしゃいの気持ちです。

こんな気持ちになれたのは、映画「産まれる」をみたからだと思っています。

それと。。。
偶然にも、第一子、第二子ともに同い年で、とても仲良くしているママ友がいるのですが、彼女も流産を経験したばかりでした。

今回のことを報告したら、こんなことを言ってくれました。

私たち二人の子どもたちも同じ年で仲良くしていて、もしかしたら、第三子もお空で仲がいいんじゃないか。

だから、私(ママ友)の子がこっちに遊びに来て、楽しかった!とか言って、おとさんちも、じゃぁうちも言ってくる!とかってなったんじゃ?もしかしたら、二人の子どもたちも、お空時代から仲良かったんじゃ?
と。

今頃、お空で、次はいつ行く?今度はあっちで遊ぼうね!って話してるのかな。
いつでも待ってるからね。

2014.06.19 投稿者:おと/新潟県

二年半に第3子の妊娠がわかりました。
ずっとほしかったし、子供にたちも喜んでた。
つらいつわりがきて、重い…
二回目の検診のときに心拍確認ができました。

そのときになんと双子ちゃんだった。

びっくりのあまり、不安もあり、大きな病院を紹介された。

転院してすぐに赤ちゃんの心拍が確認出来ないと言われた…。頭が真っ白になった。なぜ、前に心臓動いてたのに、なんで…

また次の検診で、心拍確認できなかったら流産ですと言われた。

次も確認できなかった。

最後にエコー見せてもらったら、二人で寄り添ってた。

初めての手術。つわりも手術するまでおさまらない。なんで、赤ちゃん死んじゃってるのに、つわりがあるの。つらかった。

それから、二年後の同じ月に三番目を出産しました。
産まれるまで不安だった。

あの子たちがいなかったら、今のこの子にも会えなかったのかなと思う。

あの子たちにありがとう。妹を元気に産ませてくれてありがとうと。

ころからも見守ってね^_^

2014.06.07 投稿者:みゆ 静岡県

待望の第一子。
欲しいと思ったら、すぐに妊娠できた。
だから子供を持つ事も、当たり前にできると思ってた。

妊娠経過もとても順調で、あっと言う間に臨月。

予定日を1週間後に控えた日の定期健診で、急に我が子の死を告げられました。

「心拍が確認できません。今日は1人で来たの?」

きっと一生忘れられない。
でも不思議と、その時は泣けませんでした。

その日に入院し、翌日には促進剤を使って出産。
3時間で息子は出て来てくれて、優しい子だなと思いました。

3166g、52cm。

眠っているようにしか見えない。

すごくすごくかわいい我が子。
でも、もう触れる事も出来ない。

翌年、第二子を授かりました。
今度こそ元気に産んであげたい!
毎日思っていました。

それなのに、母子手帳を受け取ってすぐの検診で
またあの台詞です。

「心拍が確認できません。今日は1人で来たの?」

あぁ、まただ、と思いました。

どうして私ばかりこんな目に遭うんだろう。

それから入院し、促進剤を使って出産。

小さい、小さい、二男。
出産もあっと言う間。
幸せだった妊娠期間も、あっと言う間。

今は2人並んで眠っています。
きっとずっと、我が家を見守っていてくれると思います。

私はこれから不育症の検査、治療をしていきます。

もう絶対に繰り返したくない。
いつか必ず元気な子を産みたい。
主人をお父さんにしてあげたい。

2014.01.24 投稿者:kana*

忘れもしない8月13日。

旦那は仕事で帰りは遅い。だから、わざと一人で妊娠検査薬をやった。
・・・だってね、陰性の検査薬を見るのと悲しくなるから。
その後の会話が、もっともっと悲しいから・・・。

でも、この時はなんだか、なんとなーく、赤ちゃんが来てくれたような気がしてた。不妊治療を始めて2周期目だった。初めてのタイミングをみてもらった。

ワクワクする気持ちを押えながらも、期待しながら見つめた検査薬。少し薄い陽性反応。

1人リビングで叫んでた。旦那にはメールで伝えた。返事は1時間後だったが『わぉ』となんだか冷静?帰ってきてからは、写メを撮ったり、2人でとてもとても、はしゃいでいた。まだ、ベビーと呼ぶのは恥ずかしく、びーちゃんとよぶ事に。

8月22日

病院で胎嚢胎芽の確認ができ、9月2日には心拍の確認もできた。
出血があり心配だったが、しっかりピコピコしてた。

不妊治療専門院だった&私の体格が大きい為、ハイリスク出産になりそうな事から大きな総合病院へ。

つわりがとてもひどく、お腹はすくし、食べれるけど吐く毎日。
食べたい物も少なくなり、それでも、食べて吐いてを繰り返し15キロほど痩せた。

3、4週間間隔で検診。そのたびに大きくなって行くびーちゃんに微笑みが絶えなかった。
職場でつわりのつらさが解ってもらえず泣いたり、ちょっとした事で不安になる。

検診のたびに増えていくエコー写真が、とてもとても嬉しく、宝物になっていた。

もうすぐ、5ヵ月で安定期に入る。
つわりと戦いながらも、妊娠情報誌でお勉強。

もうすぐ性別が解るかも。私は女の子がいいな。でも、つわりがひどいと男の子だよって、言われたりした。

11月8日 16週2日 検診。
男の子か女の子かわかるかなぁ〜なんて呑気に待合室にいた。よばれて診察室に入り、おなか周りを測り、心音を聴く機械をお腹に当てた。初めてだった。ワクワク。ドキドキ。

・・・あれ?聞こえない。

先生が下から、、、と。経膣エコーをみた瞬間、先生の一言。

『え??』

心臓がとまりそうだった。

子宮口にびーちゃんの足が入り込んでいるそうだ。子宮頸管が短くなっている。まだ5ヵ月に入る頃。勉強していたとはいえ、自分の今の週のあたりしか、見てなかった。

まだ子宮口が開くという状況がよく理解できていなかった。このままだと、赤ちゃんがでてきてしまい、破水し流産してしまうと、そのまま入院。数日様子を見て、子宮口を縛る手術になるだろうと。

その言葉にビックリ。色々と生活の規制がかかる。それでも、大丈夫。安静にしてれば、大丈夫だと思っていた。

車椅子を準備しますね、の一言にビックリ。病室に行きながら、旦那にメールし来てもらった。病室で初めてびーちゃんの心音を聞くことができた。・・・トクトク トクトク。とてもとても嬉しかった。

・・・今思えば、びーちゃんが僕、おとうさんとおかあさんが大好き、と一生懸命、伝えようとしていたのかな。

毎日の内診と心音と張りの確認。
毎日、びーちゃんは元気だった。
でも、どんどん子宮口は開き、頸管は短くなって行った。

3日後くらいには、赤ちゃんの袋が見えかけている、、、5日後には手術が決まった。

11月13日 17週0日
手術自体は30分ほどで終わる。その前の麻酔の方が大変だと言われていた。手術室前まで、旦那と母が来てくれ、一人で手術室に入った瞬間、パニックに陥った。

TVで見る手術室。不安。心配。恐怖。
麻酔の注射中に興奮し、鼻血まででてきてしまった。

看護師さんに抱きかかえられていても、不安と恐怖しかない。

準備が進み、腰から下の感覚が無くなった。
まだ終わらないのかなと思っていたら、麻酔の先生が『眠くなるからね〜』あれ??私の手術は下半身麻酔だけのはず、、、と思ったら意識がなくなった。

目を開けたら、母と旦那が号泣している。

母に『あかちゃんは?』と聞いていた。母は『赤ちゃんいるよ。。。』反対側にいた旦那がそっと口を開いた。『あかちゃんな、でてきてしまって、破水してしまってん。縛れんかってん』

大粒の涙が頬をつたった。病室には鼻をすする音だけが聞こえる。

先生が様子をみにきた。そして、手術の事を話してくれた。それを私は冷静に聞いていた。

胎包が出すぎて、押えながら施そうとしたが、破水してしまった。子宮口を縛ろうとしたが裂ける事もある為、状況判断で縛らなかったと。妊娠は継続終了という事で、と。

破水してるので、あかちゃんは今はまだ生きているが、肺がどんどんしぼんでいき、亡くなります。
今日か明日には産まれると思います。
産まれない場合は、出しましょう、と。

旦那はずっとずっと手を握っていてくれた。まだ胎動も感じていなかった。感じたくて、お腹にずっと手をあてていた。
びーちゃん。はやく出ておいで。。。

先生が言った、肺がしぼんでいく。って言葉が頭から離れなかった。
グルグル グルグル。
すぐに陣痛が始まったらしい。

情報誌は見ていたが、まだ先の出産についてはあまり詳しくは読んでいなかった。
だって、まさか5ヵ月で出産するなんて、思っても見なかったんだもん。

様子を見に来る助産師さんに『生理痛の様なキーーーンと痛い感じがする』と言ったら、それが陣痛だと。その日の夜中には、数分ごとの強い陣痛がついた。ベットごと違う部屋に移動。助産師さんが『もう、お産が始まったね』と言われた。

が、その日は産まれなかった。

次の日の朝方、その日の担当の助産師さんが、ピンクのファイルを持ってきて渡された。流産や死産した方への病院がお手伝いできる事やこれからの事について書いてあるので、読んで下さいと。まさかこんな事になると思っていなかったため、旦那が一旦帰宅し泊まり込む準備をしに行った。

ピンクのファイルを読みながら、泣いていた。なんで?なんで私なの?私がこの子を守れなかった。私のせいだ。そんな思いで、涙をこぼした。

ファイルには、赤ちゃんにできる事をしてあげようって事が書いてあり、写真や手形・足型をとったり、準備してあるおもちゃや、洋服を着せてあげられるという事や死産届けや火葬の事が沢山書かれていた。

また涙が頬をつたう。なんで私が、この冊子を読んでいるの?と。その時、旦那が帰ってきた。私の顔を見た旦那は、私に駆け寄り、一緒に泣いた。声を押し殺して、泣いていた。

助産師さんが内診。もうそこに足がある。まだ17週なので、逆子だったのです。その時にさっき赤ちゃんの棺はMサイズって言いましたが、Sサイズで大丈夫ですと言われた。

旦那が帰っている間に、助産師さんに赤ちゃんの棺はMサイズのを買ってきてくださいと言われていた。でも、旦那にはマダ言ってなかった。旦那にその事を伝えたら、マダお腹の中に居るのだから、産まれてから準備しようと言ってくれた。

小さい小さい陣痛はあるものの、お産が進まない。

夕方先生がやってきて、まだ産まれないので、もう取り出そうと。

何もない部屋。私が横になっていた椅子のようなベッド。それは、分娩室で分娩ベッドだった。助産師さんと先生がバタバタと動き始め、私はまた色々な機械に繋がれる。

エコーに映ったびーちゃんの心臓は動いてなく、頭がひっかかっているだけだと。隣にいる旦那はずっと手を握っていてくれた。不安と恐怖と痛みに耐える私をずっとずっと、何度も何度も、声をかけ、頬を撫で、頭を撫で、手を握っていてくれた。

先生が子宮を押して、びーちゃんの頭を押し出していたのだろう。。。痛くて痛くて、いきんで〜と言われるものの、いきみ方が解らない。力を入れていると助産師さんがお腹を覗き込むように、力を入れて、と。

その後は、胎盤を掻き出していたのと臍帯が少し子宮?胎盤?にくっついていたらしく、それを剥がす?処置?がめちゃめちゃ痛い。痛い痛いと叫んでいると、先生はそんなに痛くないから、落ち着いて、と。落ち着けないよ。。。

そしたら助産師さんが点滴を入れる。それが血管に入ってない。痛いと叫ぶと、先生が何事もなかったように刺し直した。・・・何をされているのか、何の処置なのかよくわからないまま終わった。

残念ながら、私はびーちゃんが産まれた瞬間が解らなかった。旦那がよくがんばった。本当に頑張ったね。と沢山褒めてくれた。

先生が、あたまが引っかかっていたから、取り出す際にバラバラになってしまった。でも綺麗にしますからね。子宮はキレイにしたので、ちょっと痛かったねって。結果はどうであれ、先生には感謝。最善を尽くしてくれた。少しして、びーちゃんは小さな小さな棺に入れられて私たちのもとにやって来た。

11月14日 17週1日 18センチで132グラムの多分、男の子(先生は念の為不明としていたが、シンボルがあった)を出産しました。

バラバラに、、、と聞いていたが、とってもとってもキレイだった。もう何もかも出来上がっていた。びーちゃん。私と旦那が小さな小さなびーちゃんに声をかける。ちっちゃい手足には爪もある。足は指をくねくねウゴカシテ遊んでいたみたい。肩の骨はとてもしっかりしている。

涙はでなかった。

だって、私たちのびーちゃんに会えた。やっと、会えたんだもん。とても幸せになった。

旦那に持ってきて貰った、旦那が作ったびーちゃんのおもちゃと、私が作ったびーちゃんのモコモコのミトンと靴下を入れてあげた。産まれるのは4月の予定だったから、その年の冬用だった。

ちょうど良くなっちゃったね。でもこれで寒くない。旦那の作ったおもちゃでさみしくないね。親子3人で、そんな会話をしていた。

次の日には母が来てくれた。びーちゃんの足を見て、私にそっくりだと。笑って泣いていた。葬儀会社に話を聞き、手続きに追われた。火葬は絶対に一緒に行くと決めていた。

昼から退院診察。明日には退院していいと。早く帰りたい気持ちが大きかったが、もう明日帰っていい。あっけなかった。退院の日に火葬できる事になった。

一緒に居たいがそういうわけにはいかない。びーちゃんは病院に預けていた。病室は暖かいため、びーちゃんにとっては、暑いのだ。夜、びーちゃんに会いたくなって、連れてきてくれた。

旦那と、目は私たち夫婦にそっくりだね。大きなお鼻はおとうさん似かな?おちょぼ口はおかあさん似だねって、旦那と言い合いをしていた。

翌日、朝一で退院して、お家に一緒に帰ってきて、火葬場に向かった。。。青空だった。。。

早くついてしまい、ずっと抱きかかえていた。ついに、お別れの時間。涙が止まらない。小さな小さな棺を抱いた私は誘導され、棺を火葬炉に置く。泣き崩れる私を母が支えれくれた。旦那が車を置いて、駆けてきた。お線香をたく。

母と旦那によりかかり、気が狂いそうになった。最後のお別れ。。。気が狂っている場合じゃない。びーちゃんは、おとうさんがつくったおもちゃと、おかあさんが作ったミトンと靴下、サンプルだけど肌着を羽織ってるから、淋しくないし、寒くもないよね。

おとうさんも、おかあさんも、おばあちゃんもいるから、大丈夫だよと心の中でびーちゃんに言っていた。小さな小さな棺は、火葬炉に入って行った。心がもぎ取られる思いだった。

あんな小さな小さなびーちゃんが。なんでびーちゃんなの?と思う気持ちは消えなかった。どうしようもできなかった。

火葬炉の方を見ては涙が流れた。1時間もかからなかった。呼ばれてまた涙が止まらない。びーちゃんの骨は小さくちょっとだけだった。それでも、残っていた。ちいさくもろいからと、火葬場の人がきれいに優しく集めて、私たち夫婦で骨壷に入れさせてくれた。

小さな小さな骨壷だった。私の両手に収まる、ちいさな骨壷をかかえて、帰宅した。雲ひとつ無い青空でした。その日のうちに、旦那のお母さんが納められているお寺さんに、お願いをし、お経を読んで頂きました。

その日の夜、旦那と色んな話をした。びーちゃんの話もこれからの話も。。。

それから数日は旦那も仕事を休み、私の側にいてくれた。ずっと、ずっと側にいてくれた。お家の中でも手をつないでいたりした。

友達は本当に親身になって話を聞いてくれたり、私の体・心を気遣ってくれる人ばかりでした。

車の妊婦マークを外し、びーちゃんのエコー写真をキレイにアルバムにしまい、途中だった日記も書き、びーちゃんBOXに大事に大事にしまう事にした。へその緒は、義母さんの小さな仏壇に一緒に置いて、見守ってもらってます。

あの時、仕事を辞めていれば、こうならなかったのか・・・
あの時、病室のベッドの上で座っているのではなく、寝転んでいればまた、違ったのか・・・
あの時、あの時、と悩んでいたが、もうどうしようもない。

もうびーちゃんはお空の上だから。
お空の上で、おもちゃをひきづって遊んでる姿が目に浮かんで離れない。

びーちゃんは、私たち夫婦に、沢山の喜び、幸せ、悲しみ、頑張るという事、寄り添うという事、その意味や暖かさ、、、たくさんの事を教えてくれた。

ここには書ききれない程の、色んな感情、気持ちを教えてくれた。あんな小さなびーちゃんに、我が子に教えられた。びーちゃんが教えてくれたたくさんの事を、胸に前を向いて歩いていく事を決めた。

びーちゃんが戻って来てくれるのか、びーちゃんが妹・弟を連れて来てくれるのかは解らないけど、私たち夫婦は、赤ちゃんが来てくれる日を心待ちにしています。

びーちゃんは私たち夫婦の中で、永遠に生き続けます。

2013.12.31 投稿者:あいらんど/愛知県

思えば、もう13年前になるんですが、娘(第二子)を出産予定日の10日前に、空へ送ってしまいました。

その日は、すごくみぞおちが痛く、それが定期的になったので、陣痛だと思い込んでしまいました。

しかし、その痛みは胎盤が子宮から離れてしまう痛みでした。

私は第一子の出産が帝王切開だったので、正常な陣痛がどんな痛みか分からなかったのです。

結局、産むはずの個人病院では手に負えず、救急搬送されましたが、娘は亡くなってしまいました。

どんな妊娠本にも常位胎盤早期剥離の情報は出ていますが、その症状は出血があると書かれています。私のように子宮口が開かず、出血が見られない場合は、とても危険なのだと後から聞きました。

救急車の中で最高血圧が40まで下がり、医療知識の無い私は、病院へ着けば赤ちゃんに会えると信じていました。

しかしもう赤ちゃんは、救急車に乗っている時に亡くなっていて、後30分遅かったら、私も死んでいたと聞かされました。

医者から、「子どもを亡くした事より、今は自分の命がある事を喜びなさい」と言われました。

親戚からは、「生きていても障害児になったのだから、死産で良かった」と言われました。

どちらも今も忘れられない言葉で、今も許していません。

私は今、子どもの父親とは離婚をし、障害福祉分野で仕事をしています。

今、毎日が充実し楽しい毎日を送っていますが、もし娘が生きていたらとつい、考えてしまいます。

娘はいつも、私の中に生きています。

きちんと自分の一生を全うし、あの世があるとするならば、今度はそこで娘にしてやれなかった事をしてあげたいと思います。

2013.12.22 投稿者:あきこ。千葉県

私は今3人の男の子を育てています。

今、10回目の妊娠中です。

10回目なのに最後まで元気に生まれてきた子は、今の3人だけです。

私の場合、最初の流産は22歳の時でした。全て初期流産。
お医者様は、外に出ても育っていかない子供を体が振り分けているとおっしゃってくれました。

その翌年、また妊娠。でも流産。
今度育たなかったら不育症の疑いがあるねと言われました。

その、3ヶ月後また妊娠。
次はしっかり育ち、今は元気に2人の弟の世話をしてくれるお兄さんです。

その次も流産1回。
次男出産。
3回流産して、三男出産。

胎内記憶や生まれる前の記憶があるとよく聞くので、毎回話せるようになると子供達に聞くことは、
「どこから来たの?」です。

長男、次男、三男共、雲の上にいて遊んでいたら、滑り台があって、お母さんがいたからどうする?と相談していたら、お姉ちゃんに「あんた行きなさい」って押されて落ちてきたそうです。

だから、流産した子供達はみんな女の子なのかもです。

こんな大雑把な母に育てられたら、かなわないと思って、途中で帰ってしまったのかなぁと
思うようにしました。

元気に生まれてくるならどちらでもいいのですが、できれば女子にいらしていただきたいと思います。
まとまりのない文で、すみませんでした。

2013.12.21 投稿者:だんご3兄弟/静岡県

私は 両親の愛情を感じず育ち(両親は愛情あるつもり)、21歳で結婚しましたが、精神が不安定な為、子供は好きですが諦めていました。

ですが、旦那様と話し合い、不妊治療することになりました。

病院も、先生が合わなかったりして変わり、人工授精までは出来る婦人科に通い、優しい先生に出会い、最終の人工受精に入るとき、まさかの自然妊娠をしました。

原因不明な為、ありえるのですが… 分かった時は嬉しかった。

しかし、喜びもつかの間、2ヶ月で 流産…手術して、さよならでした…。

悲しいより感謝ばかり、母になれる証拠をくれて、私を選んでくれた事に、いまでも感謝ばかりです。

不妊で、トンネルから光りが差した感じで、悶々とした辛い現実に、かなりの希望でしたが 次につながるから信じられなかったですが、母になれた事が 嬉しかった。

流産からの2年は、不安定な精神を、現実逃避と旦那様の支えで乗り越え、戸籍上の第一子を生み育ててます。

子供の事で、色々誹謗中傷されましたが、その痛みが解り、良い経験でした。

2013.12.21 投稿者:我が家の王子/岐阜県

2013年9月5日、16周目の定期検診で病院を受診。
初めて聞く我が子の心音、たまたま見えた性別、夫と2人、喜びの中にいました。

受診から20~30分後の事、支払いを済ませ、院内にあるコンビニで買い物を済ませ、帰宅へ向かおうとした時の事、

歩いている最中に何かが破れたような感覚で、一瞬で、着ていた洋服がビショビショになった。

あれ?あれ?あたし・・・破水した??

うぅん、尿漏れかも知れないしって思いながらも、怖くなって夫にすぐに受付に行ってもらい、そのまま車椅子で迎えに来られ、ふたたび受診・・・。

「先生、尿漏れですか?」なんて聞いたあたし。

でも、先生からは、「これは尿漏れなんかじゃないね」って・・・。

最初は内診して、それからお腹からのエコーで確認したんだけれど、羊水がもう少ししか残ってないね。って。

羊水がないって聞いた瞬間から、先生に何を言われた訳でもないのに、涙がポロポロとこぼれ出して来て、すぐに夫も診察室に呼ばれ、説明が始まった。

この時期の破水では赤ちゃんが育たなく駄目になってしまう事、破水してしまった事で、あたしに細菌感染のリスクが出て来る事、例え奇跡が起きたとして、お腹の中で赤ちゃんが生きれたとしても、肺が育たなくて生まれた時に障害を持ったり駄目になってしまうって事を言われた。

あたしがずっと泣いてるものだから、先生は今後の説明は後にしましょうって言ってくれて、入院病棟へ案内され、そのまま入院になった。

今後の事って??って思ったって怖くて聞けない、聞きたくない。

それでも、その日の夜には説明が始まって、明日の夜から赤ちゃんを外に出してあげる為の処置をしますって言われた。

処置って何?赤ちゃんを外に出す?なんで?どうして?

赤ちゃん、ちゃんとお腹の中で心音響かせてくれてるよ?

もう生むしかないんだって分かってた、そうしなきゃならないんだって頭じゃ分かってた。

それでもまだ一緒にいたい、お腹の中で一緒に過ごしたいって思って苦しかった・・・。

泣いて、泣いて、泣いて、いっぱい泣いたけど、時間は止まってくれなくて、9月6日の夕方から子宮口を開かせる処置が始まってしまったんだけど、先生が言うには少し開いていたらしい。

痛みが来ますよって言われた通り、お腹に痛みが来始めた。
お見舞いに夜、来てくれた友人達に、夫に頼んでもらい寝付くまで一緒に居て欲しいと頼んだ。
不安で、怖くて、たまらない夜だった。

赤ちゃんを外に出す、生むと言う事は赤ちゃんの心臓が止まると言う事。

どうして動いている心臓を止めなきゃならないの?ってそればっかりだった。

あたしが、あたしの赤ちゃんを殺してしまうような感覚の中にいた。

我儘を言って、何度も、何度も、心音を聞かせてもらった。

心音聴くとまだ生きてる、ちゃんと生きてるって思う反面で、これを聞けなくなるって言う怖さ。

1度は寝付いたものの、すぐに起きてしまって、先生や看護師さんがついててくれた夜だった。

9月7日、子宮口が少し開いて来たので、朝の9時ちょっとに陣痛促進剤を入れた。

たぶん、2~3回は促進剤を使うようだからって言われてたのに、入れて30分くらいで陣痛が来た。

最初は生理痛くらいの痛み、でもそれがどんどん激しくなっていく、どんな体制をしても痛い、言葉を発するのもやっと・・・。

あっと言う間に陣痛の感覚が狭くなって、何かが出て来た感触。

助産師さんが2名、先生が1人来て、確認の為に1度夫が部屋の外へ出された。

けれどすぐに夫が呼ばれ、そのまま出産が始まってしまった・・・。
まだ生みたくないよ・・・

けれど、あたしがこの子にしてあげられる、最初で最後の事なんだって思ったら、自然と頑張れる自分もいた。

いきんで下さいって1度言われただけ、赤ちゃんが自分の力で自ら出て来てくれたような感じだった。

産声の聞けない、静かな静かな悲しいお産。

2013年9月7日、AM11:49分、

身長17cm
体重128g

16周6日目の、小さな小さな男の子の赤ちゃんを出産。

あたしが感じた感触はへその緒で、赤ちゃんは足から出て来てしまい、生まれ出た時にはもう心臓は動いてなかった。

少しで良い、ほんの少しで良い、生きている間に赤ちゃんを抱きたいって願っていたけれど、その願いすら叶わなかった・・・。

出産後、すぐに赤ちゃんを綺麗にしてくれて、ベッドの横に連れて来てくれた。
生まれて初めて感じる、愛しいって気持ち。

夫にも、あたしにも似てる、可愛い可愛い赤ちゃん。

抱っこしたらまだ温かかった・・・。
最初で最後の、この子の温もり。

陣痛が始まる前のエコーではしっかりした心音をまだ響かせててくれてた。
先生が言うには、出産の時にへその緒が先に出てしまった事で、亡くなってしまったんだと言ってた。

人と人を結びつけてくれますようにって願いを込めて、結人(ゆいと)って名づけた。
名前をいろいろ考えてあったのに、出会った瞬間、この子は結人だって感じた。

翌日退院予定だったのだけれど、当初言われた細菌感染を起こしてしまい、退院が長引いた・・・。

でも、その御陰で火葬の日まで赤ちゃんと一緒に過ごす事が出来、何度も何度も抱かせてもらった。

冷たくなった我が子、
眠ってるようにしか見えない我が子、
可愛くて可愛くてどうしょうもなくて離れたくない、

まだまだずっと一緒にいたいって思ってた。

だけれどお別れの日も待ってはくれない、9月10日、火葬の日はやって来た。

あたしが離れたくないって強く強く思ってたせいか?
結人も同じ風に思ってくれてたのか、火葬場に向かう途中で、原因不明の故障で車が動かなくなった。

それでも行くしかなく向かった・・・。

火葬場で小さいからお骨も残らないかも知れないって言われてたのに、綺麗に残ってちゃんと骨壷にも入れてあげられた。

結人はとてもとても小さかったけれど、あたしには重く感じた。

この子が生きていたと言う命の重み。

凄く凄く重たかったょ・・・。

小さい体だったけれど、結人の重みはちゃんとこの手で感じたよ。

生きていたんだって、ちゃんと生きていたんだって感じたよ。

結人を生んでしばらくはあたしはもう生きてたくない、死にたい、何であたしだけが生きてるの?って思ってた。

だけど、結人はあたしに命の尊さ、大切さを教えてくれた。

今はまだ辛い、悲しくて悲しくて苦しみの中で生きている。

それでも生きよう、生きなくちゃ、結人の分まで精一杯に生きなくちゃって思えるようになって来た。

結人があたしを選んで来てくれた事に感謝もしてる、ありがとうでいっぱい。

でもね、会いたい、抱きたい、温もりを感じたいって思ってしまう。
叶わないと分かっていても願ってしまう。
それでももう1度、結人に会いたいから生きようって、頑張ろうって思える。

結人と過ごせた時間はたったの5ヶ月、短い時間だったけれど、素敵な時間をくれた。
沢山沢山、いろんな物を残して行ってくれた。

命が宿ると言う事が、元気に生まれて来ると言う事が、どれだけの奇跡が重なってなるのか・・・。

結人は、あたしにいろんな事を教えてくれた。
結人を失わなかったら、当たり前に妊娠して、当たり前に生まれて来るものだと思ってた。

でも、全てが奇跡なんだよって教えてくれた、結人が残していってくれたものは、物凄く大きい。

あたしは結人をお空に返さなくてはならなくなってしまたけれど、
結人はきっと、お空に大事な何かを忘れて来ちゃって取りに戻ってしまっただけ。

だから、もう1度、戻って来てくれると信じてる。

結人がまた来たい、戻って来たいって思えるようなママになりたい。

どんなに苦しくても1歩、歩けなくても半歩ずづでも前に進んで行こうって思ってる。

強くなったねって、成長したねって、いろんな人に言ってもらえるのも結人の御蔭だよ。

結人、本当にあたしを選んで来てくれてありがとう。

いろいろ検査をしましたが、胎盤検査などにも異常がなく、何で破水してしまったのかは原因不明。

何でこんな事が起こってしまったのかは、永久に迷宮入だと、もう神様にしか分からないと先生には言われてしまいました。

原因が分からないって納得も出来ず、どう受け入れて行って良いのかも分かりません。

それでも時間が解決してくれる、いつかきっと立ち直れる日が来ると信じてます。

先月あたしが体験した経験です。
感情のままに長々と書いてしまって申し訳ありません・・・。

2013.10.23 投稿者:結人ママ 千葉県

2013年9月21日 私は我が子を空に見送りました。

8月19日
夫婦で妊娠検査薬を買いに行き調べました。待ちに待った妊娠反応陽性の結果。本当に嬉しかったです。

8月24日
判定後初めての病院受診。「胎嚢確認出来ますね」先生の言葉に喜びました。

9月9日
なかなか姿が見えず心配してましたが、弱いながらに心拍を確認できました。
この時の嬉しかった事・感動した事…きっと一生忘れません。

9月17日
この日も私達夫婦にとって、何らかわりない受診日でした。今日は元気な姿見れるかな?心拍数も正常になってるかな?しかし、私の目に映ったエコー画像は違いました。

先週まで見えていた我が子の心拍が確認出来なかった。
先生も「今日は赤ちゃんの動きがみえないね…」と。

中待合室で待つ私に看護師さんが、「旦那さんは?一緒に説明聞きますか?」と。この瞬間、赤ちゃんダメだったんだ…と、全てを理解してしまいました。その後の手術に向けての説明・入院準備など…今思えば、すべてがうわ言のようでした。

病院を後にした瞬間、ガマンしてた涙が溢れました。
翌日も勤務の予定でしたが、一晩中泣き明かし仕事出来る状態でなく、お休みを貰いました。

9月19日
手術も来週だから…と仕事に行くも低血圧状況で早退。手術予定日を早めて貰うように、婦人科へ電話を入れました。二日後…この子に奇跡が起きてくれる事を祈りながら、ネットで心拍が再開した方のブログを読みました。

9月21日
運命の日…きっと奇跡が起きている…。そう信じて見たエコー。
我が子の心臓が動く事は、二度とありませんでした。手術の前処置は本当に痛かった。開いてない子宮口を無理に広げる処置です。

でも、今から無理やりお腹から出されてしまう我が子の痛みに比べれば大したことじゃない。その後…約二時間後に手術室へ。手術が始まるまでの時間・術後麻酔が切れ始めた中で夫と会った瞬間…涙が溢れました。

手術台の上で夫に「無事に空へ忘れ物取りに行けたかなぁ…」とつぶやくと、「きっと大丈夫」と言って貰えた瞬間、ホッとしました。

あなたが私達夫婦の元に来てくれたとわかってから約1ヶ月間。私達は本当に幸せだったのよ。貴方は私達の周りの沢山の人に幸せを届けてくれました。

もう一度…あなたと会うために、一から始めます。でもやり直しじゃないよ。
あなたが私達の元に来てくれた事は、真実であり奇跡だったのだから。
リ・スタートとして、あなたがいつでも戻って来れるように、二人で仲良く待ってますね。

今度は忘れ物をしないで、この世界に飛び出して下さい。

小さいながらに確かに存在した我が子の事を、何らかの形として残したくて、ここに投稿させていただきます。

2013.09.21 投稿者:みぃ 大分県

普通に妊娠して普通に子供が生まれると思っていた私。

3年前の5月、子宮内胎児死亡により23週で男の子を死産しました。
「死産」と言う言葉をどこかで聞いた事があったものの、まさか自分におこるとは思ってなかった。

ラミナリアの痛みに、泣き声の聞こえない出産の辛さ、
そしてみんなから言われた一言、

「赤ちゃん死んじゃった。どうして?」(夫の知的障がいのあるいとこから言われたこと)

「あなたいくつ?若いんだから、また産めるでしょう?」(同じ病室だったおばさんに言われたこと)

「何で教えてくれなかったの。友達じゃん?」(友達から言われたこと)

「早く忘れた方がいい。忘れなさい。」(姑•親戚•色々な人から言われたこと)

中でも一番辛かったのが火葬の日の姑の遅刻•••

夫と姑を駅まで迎えに行く事になっていて、待ち合わせ時間から一時間たっても来ず、遅刻してきたにもかかわらず言い訳をする姑。結局、そのせいで火葬時間にギリギリになって最後のお別れもできずに火葬したこと。

その後、二人の子供を授かる事ができ、姑に子供を会わせる度にその事で。
同じ子供を生んだ母親とは思えず、許せないとは思いながら、二人の子供にとってはおばあちゃんであり、私が会わせたくない気持ちは子供に関係のない事、と自分に言い聞かせながら、いまだに自分の中で葛藤しています。

ただ一つ言えるのが•••辛かった事や悲しかった事ばかりではなく、亡くなっていたけどあの子に会えた事、死産を通して色々な経験ができた事は、私にとって必要な経験だったと、今ではそう思えます。

2013.09.12 投稿者:あきひと

4年前の8月…、結婚2年目の夏。
念願の赤ちゃんを授かりました。
出産予定日は4月7日。
初めての妊娠、エコーに映った我が子。
小さい心臓がピコピコ動いているのを見た時の何とも言えぬ感動は、今でも忘れることは出来ません。
本当に嬉しくて、毎日が幸せでした。
しかし、そんな幸せは長くは続かなかった。
8週に入っての健診では、心臓があまり動いておらず、
大きさも6週くらいで育っていない…。
頭が真っ白になりました。
それでも赤ちゃんを信じようと思った、その夜不思議な夢を見ました。

小さい女の子でした。
私に向かって
「私、桜の花が咲く季節に産まれるから、
名前には桜っていう字を入れてね。
早く会いたいね。
でも…、この体は私が望んでいる体じゃない…。
寂しいと思うけど、また直ぐに戻ってくるから!
待っててね!絶対だよ!」
そう言うと、真っ白な草原に女の子は去っていきました。

その夢から目覚め、その数時間後に出血。
流産しました。
望んだ体じゃない。女の子として産まれて来たかったけど、
宿った体は男の子だった…のかなと。

それから2年の月日が経ち、赤ちゃんを授かり無事に出産。
女の子でした。
きっとあの時の桜ちゃんだと思っています。
帰って来てくれたんだと。
そんな娘もこの秋で2歳になります。
そして、私のお腹には第2子が宿って妊娠9ヶ月になります。
性別は男の子。弟を連れてきてくれました。
もう少し、お話しが出来るようになったら娘に聞いてみようかと思います。

2013.08.01 投稿者:さくらママ

今月の6日に1ヶ月になったばかりの息子。
しかし、1ヶ月になった日の朝方3時頃からミルクもなにも飲まなくなりました。

その日に限って、祭日ってこともありほとんどの病院は休み。
当直医にかかりました。

しかし、誤診で風邪と診断。
帰されました。

しかし、その日の夕方5時頃急変。
救急車を呼ぶも救急車が到着する頃には心肺停止状態。

夜8時頃重度の肺炎にて看取ることとなりました。

しかし、その日の夢に息子が出てきてくれたんです。

『ママ、僕はお葬式が終わったら天国で神様と遊ぶんだよ。
ただ、僕はママのおなかに入るのが早すぎたんだって。
神様に怒られて連れ戻されちゃったよ。
でね、神様に許されたのが2年後の夏なんだよ。
それまで、泣かないでね。
ぼく、ママのとこに生まれ変わってくるよ(^▽^)』

って言われたんです。
不思議な夢でした。

2013.05.23 投稿者:しゅんちゃんママ

12年前に稽留流産しましたが、現在、9歳と7歳の2女が元気にすくすくおおきくなっています^^
もう1人居れば、また違った子育てができるだろうなぁ、、、と思っていた時に4回目の妊娠。
35歳の春でした。思い切って、15年間続けていた看護師の仕事も妊娠初期に退職しました。
それなりに順調で、12月の出産を楽しみにしていました。

しかし、26wで緊急帝王切開(臍帯血流異常)になり、642g男児を出産しました。
出産前は号泣でしたが、出産後は笑顔で迎えられました。
1wに1回のムンテラ、2日に1回の面会に行く日々でした。鐘太はまずまず順調で、1000g目前で急変しました。翌日には抜管予定だったのに、生後50日目でお空に帰っていきました。

家族全員で鐘太の供養をすることで、大人の心は落ち着きます。子供たちは、死に対して敏感になりました。でも「家族が健康に暮らせるのも、鐘太が見守ってくれているんだよ。」と話すと、笑顔になります。

この貴重な経験が、きっと今後の仕事(看護)に役に立つと信じています。
視野を広げて、ゆっくり前進しよう!!

2013.05.10 投稿者:ゆっかん

過去に2度の流産を経験しましたが、2度目の時に不思議な体験をしました。

3年に始めての流産を経験し、夜中の稽留流産でうろたえ泣き明かしました。

だから2度目の昨年は、何度もお腹の我が子に「途中で出てきてはいけないよ」
と語りかけ続けました。

そのせいか?手術前の処理をされる時、子宮口が堅く閉じてなかなか開かず
医師が苦戦しているのが判りました。

そこでお腹に手をあてて「よく頑張ったね。お空に帰っても良いよ」と語り
かけたところ、子宮口がスッと開いたのです。

その後の手術室で、生まれて来てくれないのなら、私も一緒に連れて行って
欲しいと懇願しましたが、それは叶わず、こうして投稿しています。

私が今もこうしてこの世に居るのは、またあの子達が戻って来るためには
私が必要なのだという考えに至り、今も不妊治療を続けています。

2013.03.20 投稿者:ぽっぽ。

てんてんのママさんありがとう!安藤ひろこです。昨日(2/27)朝、久しぶりにこのページを何気なく開いてみました。昨日は午後から近くの高校で講演する事になっていて、てんてんのママさんの投稿を読み、大きな勇気を頂きました。本当に不思議ですね。私が背中を押して欲しかった時、このタイミングでてんてんのママさんからの投稿を読むとは・・・高校生の前で話すのは初めてだったので、様子がつかめず不安がありました。寝てしまう子もいましたが、熱心に私の講演に耳を傾けてくれる子が多く感心させられました。みんな色んな思いを抱えながら生きているのだと感じます。

てんてんのママさん、ゆっくりで大丈夫です。とても時間が必要です。私自身、これは生涯消えないな・・と思うことも心にあります。でも、常にその苦しみがあるからこそ、人の心の痛みも感じる事ができる。人間にとって何よりも大切な事だと思います。

新生児死を体験し悲しみに打ちのめされ、それでも必要だと思って本を出した。共感の声が多い中、やはり、それに対してとても身近な所から、批判や揶揄する声も噂等で耳にすることもあります。勇気を出して大きな行動を起こす、それは、そのような批判等にも更に耐える覚悟も必要です。赤ちゃんを亡くした私達と、周囲の人達との心のギャップにとても苦しいと感じる事多いですね。自分の体験から医療者の方々への切なる思いを持っておられるママ、パパたくさんいらっしゃると思います。

池川明先生の著書「ママさよなら。ありがとう」の中に、[気づいた人から声をあげていけば、人々の受けとめかたは変わっていくのではないでしょうか。]とありました。私もその通りだと思います。それしかないと思います。

皆、同じ弱い人間です。どんなことでも勇気を持って行動出来るかどうか、ただそれだけのことだと私は思うのです。無理をすることなく自分に出来る事を自分のペースで精一杯努力する。
なぜ私は行動するか。やりたい、やりたくないという感覚ではなく、目の前にそれがあるから向き合う・・というのが今の私が持つ感覚だと思います。

本当に助けが必要な時、天からいつもメッセージが降りてきます。みんな気づいて欲しい。その時、たまたま読んだ本から、ちょうど観ていたテレビから、誰かとの会話から、昨日の私のようにインターネットから・・等々 あなたに今、必要なメッセージが届きます。本当に本当に助けが必要な時だけ、それは届きます。あなたは、一人ではない。どうか目に見えない存在に気づき、天から送られてくるメッセージを静かに受け取れる心を用意してください。
大切な赤ちゃんをお空に還して、傷つき、つらい思いをされた。代わりに深い愛情と優しさを与えられたママだからこそメッセージを正確に受け取ることができると思います。
赤ちゃんは、空に還ってもなおママやパパに元気、勇気を与えるために一生懸命メッセージを送り続けてくれています。

てんてんのママさんとの御縁に深い感謝を込めて・・・

2013.02.28 投稿者:安藤ひろこ

昨年9月、私は初めて妊娠した子を生まれて3時間で亡くしました。
戒名は「天祐嬰子」といいます。
安藤ひろこさん、あなたの息子さんの圭祐くんと同じです。

お空の上で本人たちもびっくりしていると思いますが、私も初めて見たときに驚きで絶句し、号泣しました。すぐに本を注文し届いた本を見てさらに驚いたのは、表紙の圭祐くんのイラストが、私のイメージするお空の上の息子にそっくりなこと。私が不安になったときに仏壇に向かって「ママをたすけて」とお願いすると「ママたすけにきたよ~」とびゅーんっと現れる姿。目は一瞬しか開けなかったので私の記憶では息子は目をつむったままで、天使の輪と羽根をつけて、おそらく左利きだと思うので(エコーで左手をよく動かしていたのと、夫も子供のころ左利きだったそうなので)左手に星のスティックを持ってやってくるまさにうちの子そのものです。そして表紙の裏に載っていた圭祐くんの写真も、驚いたことに息子に似ているんです。口元といい、一直線のかわいいまゆ毛といい、沐浴を終えて「ふぅ~、気持ちよかった」と言ってるような表情。

この本は私が書いたんじゃないかと思うくらいで、本を読んでいる途中何度も手を止めて表紙を見つめてしまいました。私も自分のこの経験は本が1冊できてしまうなと思っていたのと、そして経験したすべてを忘れたくなくて産後少し書いてみたことがありました。でも、あまりにも辛くてすぐにやめてしまいました。ひろこさんの本を読んで、まだ私には早かったんだなと思いました。もう少し時間がたてば、落ち着いて経験としてまとめることができるかもしれません。少しくらい時間がたっても忘れやしませんよね、こんな壮絶な体験。

この体験談のページは産後よく見ていたのですが、仕事復帰してからはなかなか見る機会がなく、映画「うまれる」が家の近くで上映されることを知り、見に行きたいけどどうしよう思い出して号泣してしまいそうで怖いな、と悩みながら久しぶりにこの体験談のページをのぞきました。その時にひろこさんのこと、この本の存在を知りました。その日は2月12日、1年前のこの日妊娠検査薬で陽性が出ておなかに赤ちゃんがいることを確信した日でした。こんな日に出会えたご縁も感じています。

私の息子の戒名「天祐嬰子」もやはり「天のたすけ」という意味だと住職さんから教えていただきました。どんなときでも、天からお父さんお母さんを見守ってたすけてくれるのだそうです。

本の感想、ひろこさんにお話ししたいこと、たくさんありすぎてとても書ききれません。あまりに同じような経験があって・・・。でもひとつだけお話しさせてください。私が退院したときに着ていた服も、偶然真っ黒な服でした。体調に異変を感じ、慌てて病院へ向かったところそのまま陣痛が来て出産となりました。その入院の時にたまたま着ていった服を着て帰ってきたわけですが、この服は妊娠中に万が一不幸ができたときでも対応できるようにと思って買っておいた服でした。着やすいのにきちんと見えるので、仕事中もよく着ていたマタニティウエアのワンピースでした。まるで準備していたかのように、真っ黒な服を着てクーファン型の棺に横たわった冷たくなった息子を抱え、病院の霊安室からの退院。まさか、この服を自分の子供の葬儀に着ることになるなんて。こんなことってあるのだろうかって。現実が受け入れられませんでした。

私は産後休暇終了頃に精神状態が悪化したため、その後3か月ほどの病気休暇を取り、最近仕事に復帰することができました。まだ、メンタルクリニックに通い抗うつ剤と睡眠導入剤を服用しながら何とか仕事に行っています。行き会う人が、励ましのつもりでかけてくる言葉に傷つく毎日です。もう少し落ち着いたら、私もカウンセラーの資格に興味があるので勉強してみたいと思っています。私に何ができるのかわかりませんが、ひとつでもできることからやってみたいと思います。今日もひろこさんが、どこかで奮闘している姿を思い浮かべて、私も負けないように生きていきます。

この子がやって来たことで、私はやさしくなれました。
周りの人たちがやさしく感じるようになったのは、自分自身がやさしくなったからだと思います。
あとはもう少し、強くなりたい。

2013.02.24 投稿者:てんてんのママ

4年前の体験です。
出産予定日から2、3日後まだ生まれないのかなぁと
検診にいくと赤ちゃんの心臓は動いていませんでした。
臨月での死産。
夢なんじゃないかと何度も顔を叩きました。

体験したことすべて書きたいのですが
たくさんありすぎて文章力のない私には難しいです。
またきかいがあればコメント致します。

今、2歳になる女の子をもつ母となりました。
時々一人っ子??など質問されると
複雑な気持ちになりますが幸せな生活をおくっています。

2013.02.03 投稿者:なほ

2008年12月25日、圭祐は生まれました。でも12月27日に日付が変わって間もなく、圭祐はまた空へ還って行きました。
NICUのある病院に運ばれることなく、自分が生まれた市立病院で亡くなった意味を圭祐は私に託して逝きました。それだけでなく、幼いころの自分の生い立ちなどから私が心の奥で問い続けてきた、自分が生まれ生きる意味。それも教えてくれました。遺族や、周囲へのメッセージもたくさんありました。また、魂は永遠である事、それにも気付かせてくれました。そして私がこの先どう生きるか・・・ヒントを残して逝きました。

圭祐の死後、悲しみ苦しみの暗闇で一人さ迷う日々を過ごしていた私ですが、市立病院のIさんという看護師(現在は看護部長)との出会いにより、私の魂と人生は救われました。
Iさんと私はおそらく前世でも、何か深い関わりがあったように思えてなりません。魂が引き合って出会ったのだとお互い感じているのです。

Iさんはその頃、管理師長と言う立場でした。Iさんは私に市立病院での講演を依頼してきました。一度は断りましたが私は引き受ける事にしました。病院の体制を変えようと一生懸命、現在も働いておられます。病院での講演(2010年1月)は、Iさんも想像以上の病院スタッフが聴きにきてくださいました。多くの看護師が涙し、また寄せられた感想には、自分達が「死」に対して慣れすぎていたこと、そして、看護、言葉かけに対しての気づき、さらに母親という立場からも自分を見つめなおした・・・など綴られていました。
圭祐の最期に立ち会った小児科の医師からも、講演直後、「勉強になりました。今後あのような事が起こらないように、このことを胸に刻んで生きていきます」と私と夫が一番聞きたかった、でも医師や病院の立場では絶対に聞けないだろうと諦めていた言葉を直接聞くことができ、やっとそこで訴訟を起こさず、争うことなく解決できて良かったと思うことができました。

2011年8月に私は文芸社から「天祐嬰子(てんゆうえいじ)生まれて二日で逝ったわが子へ 新生児死を体験して」という本を出版しました。文芸社との出会いも御縁を感じています。出版から間もなく重版もされました。
ぜひ読んで頂きたいです。新生児死の現実をできるだけリアルに伝えるとともに圭祐からのメッセージ、魂の繋がりについても感じ取れるのではないかと思います。

昨年2012年から保育園(保護者対象)で講演の依頼がちらほらと入るようになり、来月2月27日(日は予定)には、近くの高校(初めて生徒対象)で講演することが決まっています。

今年の4月からはカウンセラーの勉強を始めようと思っています。

私にできる事は、とても小さなことなのは分かっています。気の遠くなるような作業です。それでも私は、自分にできる事を自分のペースで努力し続けたいです。
これは私の前世からの持ち越しの課題である事を感じています。なぜそう思うかは、ここでは書ききれません。でも池川明先生には先日、初めてお手紙してそのことについてもお伝えしました。

虎ちゃんと圭祐は同じ誕生日かな?私は映画「うまれる」をまだ観れていません。圭祐を亡くした当時の記憶が蘇ることがつらくて自然に避けていたと思います。池川明先生の本も同じ理由で避けていました。

池川先生の本を先日初めて読んで、豪田さんのことも知りました。すみません。

私の人生をかけて書いた本、ぜひ「天祐嬰子(てんゆうえいじ)生まれて二日で逝ったわが子へ」を読んでください。池川先生にも私の本、送らせて頂きました。

また映画「うまれる」も、私に観られる時が来るか分からないですが、豪田さんのお仕事は心から応援しています。きっと圭祐も同じ気持ちだと思います。

2013.01.24 投稿者:安藤ひろこ

私には生まれて来られなかった赤ちゃんがいます。

結婚3年で妊娠が分かり、夫婦でエコー写真を眺めながらお祝いをしました。
しかし胎児の成長が悪く「流産になる可能性が高い」との診断を受けました。妊娠イコール出産と思っていた私はそれでも信じられず、奇跡を願っていました。

しばらくして出血。
「お願い!止まって」と願う気持ちとは逆に出血量は増える一方。しだいに腹痛が始まりました。
最初は我慢できる程度の腹痛だったものの、しだいに痛みが強くなっていきました。ふと、激しい痛みと痛くない時間が交互に来ている事に気が付きました。

「陣痛だ」
嫌でも現実が突き付けられ、一気に地獄に叩き落された気持ちになりました。病院に腹痛が激しい事を伝えるために電話をしたら「それは陣痛で流産が始まっています。じきに赤ちゃんが出てくるので、出てきたら内容物を持って来院してください」と。わずかな期待も砕け散った気持ちになり、号泣しました。

「赤ちゃん、お腹にいるのに何で助けてあげられないの!なんでお腹から居なくなろうとするの?!なんで!!」と激しい腹痛に耐えながら泣き叫びました。お願いだから一人にしないで・・と。

数時間後、ふっと痛みがやみました。直感で別れの時間が迫っている事を感じました。
しばらくするとお腹から何かが出てくる感覚がして、私は自分の手で赤ちゃんを受け止めました。

その後病院へ行ったところ、自然流産との事でした。
通常、流産の場合は手術をする事が多いと聞かされました。その場合、赤ちゃんはすぐに検査に回されるそうです。私は陣痛を経て自分の手で受け止めることが出来ました。とてもとても小さい命だったけれど、自分の手でぬくもりを感じあう事が出来ました。「結果的には流産だけれど、出産できましたね。赤ちゃんは赤ちゃんとしての、お母さんはお母さんとしての役割を果たせたんですね。お母さんの体を傷つけない、優しい赤ちゃんでしたね」と先生からおっしゃっていただき、救われた気持ちになりました。

それでもしばらくは悲しみから抜け出せず、「私ってこんなに泣けるのか」と自分でも驚くくらい泣きました。「なぜ・・・なぜ・・・」と自分を責め続ける毎日で、生きていてこんなにつらい事があるのかと思いました。

月日を経て新しい命をさずかり、無事出産して育児中ですが、ふとあの頃の自分に帰ってしまう時があります。けれどこの映画を見て、天国の赤ちゃんが安心できるように暮らしていかないといけない、と思いました。「生まれてくることが出来ない運命を抱えてお腹に宿った命」を無駄にしないように生きていくこと、新たに私のもとに産まれてきた子供を慈しむ事が、私があの子にしてあげられる一番の供養だと思うようになりました。

すばらしい映画をありがとうございました。

2012.12.26 投稿者:かほ

ボボちゃんとお別れをしました
妊娠9週の稽留流産でした
2012年10月5日、今日掻爬手術を受けました

書くのを迷ったけど、実際に私が今回ネットで公開されている稽留流産を経験した方々の話に助けられ救われました
ネット社会は賛否両論だけど、自分と同じ思いをしている人が実はたくさんいて、苦しんで、立ち直って、頑張ってその後赤ちゃんを出産しているお話などを読んでいると、前を向かなくてはと勇気をもらいました
こう言ったお話は、タブーとされているからね、情報が少ない
私自身、自分が経験して初めて稽留流産という言葉を知りました
医者には流産としか説明されません

赤ちゃんの心臓が止まった

このキーワードで検索して知りました

私と同じ思いをしている女性に、一人じゃないと、なにか参考になればと思い記録します

2012年夏、私のお腹へ、ダーとの赤ちゃんがやって来ました♪
驚きと戸惑いと、でも不思議と迷いはなく嬉しかったな♪
友達に、悩んでるなら結果出せって、妊娠検査薬渡されたっけ(笑)
見事ご懐妊♪
あたしの人生プランが一気に頭のなかで組み立て始められた!

結婚、出産、母親になるということ

最初ママは大反対!!
貯金は?生きてけるの?仕事どーすんの?物事には順番があるでしょ!!!
などなど
パパはあたしの体をとにかくいたわった

おっしゃる通り母上…そう言われるのもわかってたけど、どうしても結婚してお母さんになりたかった!!
あっこがママを説得…
さすがおねーちゃん、頼りになったなぁ♪

家族みんながあたしの妊娠と結婚を喜んでくれた!!
何があっても負けないし、守って行こうって誓った!!

クリニックで写真を見た瞬間、インスピレーションで、ボボちゃんと呼ぼうと思った
性別不明の心臓がピクピク動くのを見て、名前をつけるまではボボちゃんと決めたんだ
なんとも表現できない温かい気持ちになった。この感覚は女性しか理解できないだろうなって感じた

妊娠がわかってから、不思議と無理もなく煙草もお酒もスパッとさよならできた。あんなにやめたくてもやめれなかった煙草が、潔く妊娠がわかった日からやめれた。お酒も一滴も飲まなかった、いや、飲みたくなくなった(笑)
我ながらすごいと思った
これが、女の体のすごさだなと実感した

会社との兼ね合いもあり、若干揉めたけど、結局社長も認めてくれて20時には退社出来るように計らってくれた
今まで通り終電コースの毎日ではなくなったわけですね

とにかく、いろんな事がボボちゃん誕生の為に動き出したんだ

銀座までの通勤は辛かったど、ちょっと早めに出て混雑を避けた
はやく上がる分、ちょっとだけ早く行った方がいいしね
ゲーゲーしながら通ってた(笑)

10週に入った頃、毎朝のつわりが軽くなった。軽くなる頃だったので、そろそろ安定するかなと思った

ある日曜日、なんだか体調がわるくなって救急でダーと病院にいったんだ

医者:最後の検診はいつ?
あたし:先週の金曜日です
医者:なんて言われたかな?
あたし:順調ですって言われました
医者:今日は心臓がね動いてないな

検診台の上で、足がガタガタ震えた
医者に押さえられたのを覚えてる
息ができなくなった

出血してないのに

確かに、見えない
先週はあんなにはっきり動いていたのに。この小さな心臓を守ろうって頑張ろうって思ったのに

最近つわり、楽にならなかった?
今回は残念ですが…
9週の大きさなので、処置が必要になります

ずっと、耳鳴りがしてた
そのあとのことは、あまり覚えていない
恐らく、地獄に突き落とされた感覚って、あの時の事を言うんだろうな

家について、自分が流産を気付かないうちにしていたことに気付いた

ボボちゃんが死んじゃった

自分を責めた。
仕事、ストレス、高齢、体力、今までの生活習慣
すべてあたしのせいだと思った
真っ暗な闇のなかで、出口がなくて怖くて、そんな夢で何度もうなされてダーに起こされた
まるで、あたしがボボちゃんになったみたいな夢だった
そんな思いをさせているならかわいそうで、気が狂いそうだった

次の日、いつも見てもらっている湯川先生に見てもらいに行った
結果は変わらなかったけど、ボボちゃんの形が、あたしのなかで少し溶けてしまってるみたいだった
そこにもう命がないことが、わかった

お母さんのせいじゃないんだよ
これはね、仕方がない事なんだよ
先生は優しく言ったけど、それでも自分の体を責めた
涙が溢れた

そんなに苦しんだら、赤ちゃんがかわいそうだよって、先生の言葉が少しずつ心まで入ってきた
余計泣いちゃったけど

先生は、あたしの気持ちを優先した
手術を進めるけど、自然流産も時間がたてば必ず起こるから、もし自然に体の外に出てくることを希望するなら、手術はやめましょうと言われた

湯川先生に手術をお願いすることにした、すぐに決断した
ボボちゃんと一緒にいたいけど、早く空に返してあげなきゃいけないと思った、きっとそこは寒いから

それからの5日間は本当に苦しかった
ずっと一人で過ごした
ずっと泣いていたと思う
人といると、泣くのを我慢してしまうから、誰にも会いたくなかった
だけど、一人は辛かった
大丈夫じゃなかった
ボボちゃんにずっと謝ってた

テレビで親子を見るのも、子供を見るのも、赤ちゃんを見るのも辛かった
だから、外出は絶対嫌だった
大丈夫のふりをするのがしんどかった

本当は手術の終わった今でも少し痛いけど
でも、それではいけないってわかってる

ボボちゃんがあたしのお腹にいた10週と5日に
は必ず意味があったとあたしだけでもいいから信じよう

ボボちゃんのお陰で、命が産まれるのは偶然なんかじゃないこと
奇跡で女性のお腹に命が宿ること
そんな当たり前の事を、本当に考えた

健康にあたしを産んでくれた親にさえ、今更ながらありがとうって思った

またボボちゃんに会えるように、強くなろうって、もう泣くのやめようって
心に誓った

ボボちゃんをお空へ送ってあげるために、準備が始まりました

手術一日前
夕方くらいに湯川先生のところへ
妊婦さんだらけのクリニックに行くのは本当に心がしんどかった
でも、ここは心を強くもって見ざる聞かざる!!
すぐに呼ばれた
この辺もなんか、湯川先生のところは配慮があってありがたい
流産したてのあたしには、待合室の穏やかな妊婦さんたちでさえ、凶器のように心に突き刺さるのをわかってくれているような気がする
ちなみに、あたしが検診台を怖がらないのは湯川先生のお蔭だと思う
普通、もう怖くて乗れない経験を結構している
でもいつも、なんか、安心させてくれるんだな

赤ちゃんを産んだことのないあたしは、子宮口を広げる薬を入れました
その時に先生は子宮の位置も確認していたようです
痛みはないとは言えないけど、女性なら全然耐えられる痛みです

そのあとじわじわ広がっていくんですが、あたしはとにかく腰が痛かった
あとは軽い生理痛が続く感じです
ちょっとオエッてなった

そんなことよりも、次の日早いのに眠れなくて、実質一時間くらいしか寝てないと思う
心が壊れそうで、怖くて眠れなかった
夜10時以降は絶飲食で、水もNG
麻酔が効いてるのに嘔吐で器官を詰まらす恐れがあるからなんだって
口が乾いて眠れないのもあったけども

早めにクリニックに行きました
恐怖心はあるけど、もう腹も座ってた
ボボちゃん、もうすぐお空に帰れるからねって、心で唱えてた

すぐにブドウ糖の点滴を打たれました
先生がすぐ終わるからね、頑張ろうって言いに来てくれた
看護婦さんも、みんな安心させてくれる温かい対応だった
プロだと思った
お仕事とはいえ、悲しみと不安しかないあたしにとっては本当に力になった

怖かったけど、あとはもう、身を委ねるのみ
またボボちゃんに会うために
なんだって、耐えてやる

ここからは、看護婦さんの言う通りにしていれば自然に手術の終わるシステムになっています、恐らく
だから、大丈夫です
歩いて手術されにいくわけですから、怖いですけどね、なにも見なければいい、そう思ってた
人生の中の10分なんて、たかが知れてる
酸素マスクと両手の人差し指になんか付けられて、多分脈拍はかるやつ?
右腕は血圧はかられて、左手には点滴

先生はギリギリまで多分姿見せなかったな
まずは検診台の上で天上しか見えない状態にされるのでなにも見えない
だし、ほぼ目をつぶってた
視覚からの恐怖をすべてシャットアウトの作戦だったから

麻酔の投入が始まって、数を看護婦さんと一緒に数えるんだけど、しっかり30まで数えた
もう数えなくていいですよって言われたのも覚えてる
意識はずっとあったな
息してくださいって何度か言われたし
早く終わってほしいってずっと思ってた
なんか、痛い気がするんだ
気がするだけ
実際、鈍いだけだけど
なんか、嫌な感じが下半身でしてる
手術説明をされたときに、嫌な感じがするかもしれないけど、大丈夫だから手術に協力してねって先生に言われたことを思い出した
我慢する、し、実際曖昧、麻酔が効いてないわけではないから

先生と看護婦さんの話し声のようなものが聞こえる
何を話してるのかはわからない
多分、何かを足された気がする
看護婦さんが二回、その足す量を先生に確認した
先生ははっきり、いいです、足して!と言った。
麻酔かな?と思った

自分の乗ってる検診台が、遊園地のアトラクションみたいに移動して、そうだな、明るい狭い通路を結構なスピードでビュンビュン乗り物に乗って移動しているような感覚でした
多分あたしは麻酔があまり効かないようです
余計怖いけど、耐えられない痛みや感覚ではないから、この程度の麻酔なんだろうと思います
人によっては寝てたら終わったとか、気がついたらベットの上でしたとかいろいろです

終わりましたよー、ゆっくり息をしてー、聞こえて目を開けた
終わったんだなと思った
下着をはかされて、リフトに乗せられて吊られてベットに移った

口がカラカラだった

看護婦さんに、もう終わったから大丈夫だからゆっくりして、寝ちゃってもいいし、見に来るからと手を握って言われた
涙が溢れでた
今日までが一番辛かったね、やっと眠れるから、体を休めようって

なんでこの人たちはわかってるんだろうって思った
気休めでも決まり文句でも嘘でも仕事だから言っててもいい
その言葉で安らげた

ボボちゃんが帰っていきました

麻酔の副作用で吐く人も多いって言われたけど、あたしは大丈夫でした

時計を見たら、15分くらいしか進んでなかった
もう何時間もたったように感じてたけど、実際は短時間の手術
それから、ずっとベットの上
すぐには動けなかった

診察を始めまーすという看護婦さんの声が聞こえた
ザワザワと人が入ってくる気配がした

やはり、医者と看護婦という仕事はすごいと思う
人を救う仕事、想像を絶する大変さだろう
でも、今日のあたしみたいに心が救われる人が自分の仕事で沢山いるとしたら、素晴らしい仕事でもあるよね

ここのクリニックはいつもいつも混んでいて、予約するのも大変です
でも、その理由は明確にわかる

少し眠った気がする
ダーが外で待っててくれてる
結構な時間待ってるな
松屋食べたかな
寝てないのに大丈夫かなと心配になった。

調度看護婦さんがお茶と飴ちゃんを持ってきてくれた♪嬉しい♪
おかわりする?って言われたけど一杯で平気だった

そのあとこれからの注意事項の説明
お風呂はしばらくダメとか仕事はとか家事はとか、いろいろ

先生がもう一回観てくれます
止血用のガーゼが入ってるようで、それを取るみたい
検診台、うん、全然怖くない

もう怖い思いは終わったから楽にしてねー、って先生
はい、怖かったです!

沢山出血してるから、体を休ませて、寝ていっていいからって先生に言われたけど、もう動けたからダーと帰ろうって思った

抗生物質と子宮収縮剤を5日間処方されました
子宮を広げて縮めるんだなと、風船をイメージした

心も体もクタクタだった
今は休もう
体力も心力も養わなくては

ボボちゃんありがと
あなたと一緒に過ごした時間はあたしの宝物です
短い時間だったけど、お母さんにしてくれて嬉しかった
またきてね

帰りはお蕎麦を食べて帰りました
おうちについて、ダーは疲れてたようですぐ眠った
ダーありがとう、きっと無理してた
本当にありがとう

あたしを思って泣いてくれた家族
自分のことのように心配してくれた友達
妊娠を喜んでくれて、大切に体を扱ってくれた仲間

心から感謝しています
ありがと

今は少し休みます

本当に悲しい経験をしました
実際、自分が流産をして、どんなに苦しいことか知りました
今までまわりにも流産をした友達がいたけど、どんなに辛かっただろうかと思った

自分の体に対しての考え方も変わった

もう無理は体を蝕む
仕事も考えよう

これからの目標
仕事を頑張りすぎない
(毎日深夜とか無理、転職も視野に入れる)
食べ物に気を使う
(なるべく自炊)
運動をする
(1日30分くらいは歩きたい、ヨガも復活したい)
体を絶対冷やさない
(血行を良くする、お風呂になるべく浸かる)
定期的に婦人科に通う

悲しんでばかりいられない
しなやかで柔軟な痛みのわかる人になろう
強く優しい女性になろう

いつか、人の親になるために

2012.10.06 投稿者:エリクソン

わたしには四歳の娘、そしてお空には息子が一人います。

2010年3月、そろそろ二人目をと考えていた頃でした。
市からの子宮癌検診を受けに行き、数週間後手元に届いた結果は再度検査をしてみましょうとのこと。

もしかしたらここからわたし達の辛く憎い戦いが始まっていたのかしれません。

この時、わたしの身体には新しい命が授かっていました。
妊娠初期ということで再検査は慎重に行われました。

長女を産んだ産婦人科医院でした。
詳しく再検査をし、数週間後に出た結果、それは子宮頚癌のうたがいがあるということでした。

連携している大きな病院を紹介され、後日そこで詳しい検査をすることに。
とても痛く辛い検査でした。

そして後日、わたし達に告げられた結果は進行性の子宮頚癌でした。
目の前が真っ暗になりました。

28歳という若い年齢、妊娠中で血液量が多く盛んなこともあり、通常の三倍の早さで癌は進行していきました。
それから先生方やわたし達との話し合いなどが進められ、
まずは子宮の入口付近を切除する手術が行われました。

手術の間もお腹の赤ちゃんの様子を伺いながら慎重に進められました。
手術が終わり、赤ちゃんもわたしも無事でした。
あんな手術や麻酔に耐えた赤ちゃんの姿に涙が止まりませんでした。

切除した子宮の一部を病理検査に出すことになり数日後その結果が出ました。
先生の口から耳を疑う言葉が出てきました。

切除したいちばん奥の部分から癌がみつかった。
このままだと赤ちゃんのみならず母体の命にも関わるという。
先生方は選ぶことのできない選択をなげてきた。
その答えは先生方の中ではもう決まっていて、あとはわたし達家族が決断をくだすだけだった。

別室を用意してくれて、時間をくれた。
早く決めなくてはいけないのに、ただただ涙が止まらなくて泣くことしかできなかった。

診察室に戻り先生が言いました、

『赤ちゃんはあなたの病気を知らせに来てくれたんです。
どうか今そばにいるご主人と娘さんを大事にしてください。
あなたが居なくなったらみんな悲しみます。』

その言葉を聞いた時、病気になってから初めて主人と娘のことを思ったことに気がつきました。
そして流れていた涙が止まりました。

それから時間が流れ、わたし達家族は母体保護法により妊娠5ヶ月で人工的死産をすることに決断をしました。

でもこれは本当に容易なことではありませんでした。
涙は無くなるほど泣き、叫び、苦しみ、責め、
あれから二年経った今でも本当にこの選択で良かったのか悩み苦しむ時があります。

病気は無事に完治しましたが、今でも先生にあの時違う選択をしたいたら今あなたはここにいません。
と厳しく、でもわたしの気持ちに察する励ましでもある言葉をかけてもらっています。

わたしは毎日、お空にいる息子に謝罪と感謝しています。
生きることは当たり前じゃない。生まれることは当たり前じゃない。

今まで考えたことがなかった、『生まれること。生きること。』
家族みんなが考えさせられた半年間でした。

2012.08.22 投稿者:生きるママ

私は、去年11月に23週で死産をしました。

5ヶ月になる前の検診で胎児水腫と診断されました。余命1ヶ月。どうして私の赤ちゃんがと、声を出して泣いて泣いて毎日家族で泣いていました。

それから毎週病院へ行くたびに水腫も悪化し、首のリンパ液、胸水、腹水も溜まってゆき赤ちゃんの病態が悪化していきました。

赤ちゃんは余命よりお腹の中でがんばってくれ、そして6ヶ月と15日。母体も危険に。赤ちゃんと同じ病態になってしまうミラー症候群。全身のむくみ、胸水、尿タンパク、血圧上昇、急激な体重増加。

そして母体の心臓もいつ止まるのか解らないとのことで緊急入院。先生が個室を用意してくれました。でも産科なので赤ちゃんの声は24時間聞こえます。でも、看護士さん、助産師さん達が話を沢山聞いてくれ、一緒に泣いてくれとても心が救われました。

そして、7ヶ月の一週間前の朝のエコーで心拍停止を確認。解っていたことで覚悟はしていたはずなのに悲しくて辛くて診察台の上で号泣。先生が

「赤ちゃんもお母さんもよくがんばりましたよ」

っていってくれました。赤ちゃんはママの身体を想って自分からお空へ行ったんだと思いました。

バルーンですぐに陣痛が付き5時に分娩室へ。普通の妊婦さんとは顔を合わせない様に配慮してくれました。普通の分娩と同じ痛みです。でも私は絶対痛いなんて言わずに産んであげようと決めていたので声は出てしまうものの痛いとは言いませんでした。

9時破水。9時12分出産。

産声のないおめでとうもない出産でした。しかし担当する先生と助産師さんの気持ちが伝わってきて辛いけど暖かい分娩室でした。赤ちゃんも心拍はなかったものの一緒にがんばって産まれて来てくれた気がすごくしました。

ひどい浮腫のため2キロ近くありました。そして、夢にまで見た待望の女の子でした。さくらちゃんです。助産師さんにそう伝えたら、母子手帳にさくらの形に切り取ったピンクの紙の上に足型を付いてくれてありました。その気持ちが嬉しかった。

母体も浮腫んでいたので胎盤も大きくなっていて、胎盤と一緒に大出血。部屋に戻ってからも嘔吐。なんだか最後の最後まで大変でした。

でも、助産師さんが産んだ後私に気づかれないように泣いていてくれたこと、先生が泣けるほど良いお産だったと話してくれていたこと  本当良い人達に恵まれました。

骨も、まぶたの骨や、背骨の小さな丸い骨までも残して焼いてもらえました。うれしかった。

3ヵ月後みんなの反対を押し切り「うまれる」見に行きました。

沢山共感して、沢山泣いて、スッキリしました。心の中が澄んで行くような。今だに悲しみの強い波がきます。きっとこれを繰り返していくのでしょうね。

長い文章でごめんなさい。本でも書けるくらいの気持ちです。読んでくれてありがとうございました。  

2012.06.20 投稿者:sakurairo

いま、

私のお腹の中には亡くなってしまった命と、

頑張って生き続けている命とがあります。

双子を授かりましたが、
妊娠13週の頃に一人を失った事が判明しました。

来月が出産予定です。

不妊治療などしていない中での双子を授かるめずらしさや、
夫婦ともに子ども好き、などなどいろんな想いが重なって…
双子と分かったときには本当に

「こんな私のもとに、二人もやってきてくれたんだ!」

と幸せな気持ちでいっぱいでした。
亡くなっていると分かったときの悲しさや絶望感は、流産・死産を経験された方にしかわからないものなんだな、と考えてしまうほど苦しくて辛いものと感じました。

周りに報告した時、たくさんの温かいお言葉をいただきました。
ですが、優しさからくる言葉や行動、と分かっていながらも胸に突き刺さることも正直ありました。

でも、13週という短い命だったけれど、私たち夫婦だけでなく、祖父母、職場の人、友人たちなど、たくさんの人々から誕生を楽しみにしていただいていたことが分かりました。

それだけで、産まれてくる前からたくさんの愛情を、愛するわが子へ頂いていた事がわかっただけで・・・

私たち夫婦は幸せじゃないかと思えるようになりました。

これで少しは乗り越えられたのではないか、と思いました。

それから約5か月後。
仕事が休みに入り、初めて母親学級に参加したとき。
周りのお母さんたちのキラキラした目、表情がとても眩しく感じてしまいました。

もちろん私自身、出産が楽しみであるし、早く逢いたい。
わくわくする気持ちもある。

でも…それだけじゃないんです。

素直に目を輝かすことができない自分がいる、とその時わかりました。

あ…まだ私、受け入れられてないんだ、と。

そういった気持ちを話すことができずにいました。
そんな中で友人からこの映画を紹介してもらいました。

残念ながら、上映会場などの理由でまだこの映画を観ることができていません。
いつかきっと観てみたい。
そうすれば、また何か変わるかもしれない。

変わらなくてもいろんな人がいるって知れる。
そう考えると少しは前に進める気がするのです。

命って…うまれるのはすごく難しいのに、亡くなってしまうのは簡単。

いまある命を大切にして、母として前を向いて生きていかなければと思う今日この頃です。

2012.04.03 投稿者:Siena

先日、流産を経験しました。

9月に愛知県刈谷市での上映会に主人と出かけることが出来、その後、妊娠がわかりました。

去年、妊娠がわかってすぐに流産していましたが、映画を観て癒されていたので、安心感で妊娠期間を過ごしていました。

つわりもなく、親孝行な子だとみんなから言われて、マタニティグッズも少しずつ揃えながら楽しみにしていたころ、12週に入ってすぐの検診で心臓が確認されないと言われました。

4日後にもう一度再検査しますので、それで誤診でなければ、手術をします。とお医者さんに言われました。次の日からの4日間、この子が助かるようにと、誤診だったと言われるようにと願いつつ祈り過ごしました。

主人と一緒に病院に行きました。やはり、心臓は確認されませんでした。一週間先延ばしも出来ますがどうしますか?と言われましたが、お医者さんにお任せしようと思っていたので、今日入院させてくださいとお願いしました。主人はビックリしていました。

主人と一緒に入院の支度をしにいったん家に帰り、姑に事情をはなし、入院しました。手術は翌日、陣痛を起こす薬を3回、3時間間隔をあけて入れて、午後にとり出す予定でした。それでも出てこない場合麻酔をかけて掻き出すということも考えて、翌日は朝食後から絶食になっていました。

朝9時、一回目の陣痛を起こす薬を入れて、部屋で待機。お昼前、二回目の薬を入れるために内診室に行くと、チュルンっと出てきてくれました。後の2回の薬は中止、もちろん、麻酔をかける必要もなく昼食もとって良いとのことでした。

薬の副作用で、嘔吐下痢があるかもしれないと言われていたのにそれもなく、それよりもなによりも、絹ごし豆腐のように柔らかいわが子が、形が崩れることなく、出てきてくれたことが本当に有難く、やっぱり親孝行な子だったんだ。感じることが出来ました。

病室に、真っ白な小さな箱に入ったわが子を連れてきてくれた助産師さん。お母さんも、この子も、偉かったねぇと褒めてくださいました。
目や耳、手の指や爪まではっきりわかりました。

手術後は、心身共に元気で、主人と笑ってテレビを観たり、話したりして病室でゆったりと過ごしました。

翌日は仕事だったため主人は夜遅く帰ったんですが、夜中、悲しくなって泣いてしまいました。

泣いたら一生懸命出てきてくれたわが子に悪いかなと思っていましたが、無理に悲しみから目をそらすとあとへ悲しみだけがずっと残るからとお医者さんにも言われ、病室のパソコンで「うまれる」のサイトを開き、「泣いていいよ」を何回も何回も繰り返し観て号泣しました。

隣室には、生まれたばかりの赤ちゃんがいて、「おめでとうございます!」とお見舞いの方が出入りしていましたが、お構いなく泣きました。

そしたら、私は悲しい思いをしたけれど、わが子にいろんな事を気づかせてもらえた。

また、「うまれる」の映画を観ていたからこそ、私は、不安を感じることなく妊娠期間を過ごすことが出来た。だから、つわりもなかったし、形そのままで出てきてくれた。感謝だなぁって。

今年3月に実父が亡くなりましたが、わが子を父に預けようと思いました。
昨日、その父が火葬された同じ火葬場で、火葬していただきました。また、いつの日か私達のところに帰ってきてね、と。

素晴らしい映画を作ってくださった豪田さん、本当にありがとうございます。
長文すみません。

2011.12.17 投稿者:ポンカン

初めての子を16週で人工死産しました。

映画「うまれる」は職場の仲間に誘われ、近所で行われる上映会に行く予定でした。
しかし、妊婦健診の予定があったため、そのチャンスは見送りました。

妊娠4ヶ月に入ったところで、「胎児水腫」と診断され、赤ちゃんの存命率の低さを説明されました。
死産か、妊娠継続か、選択しなければならない。

「なんで私が」

そんな思いを抱えて、妊婦さんや小さな赤ちゃんを抱いた家族をうらめしく思った日々でした。
セカンドオピニオンを求めて違う病院にかけこみましたが、結果は同じ診断。
週数を追うたびに、浮腫みがひどくなる一方で、エコーで手を振ってくれる赤ちゃん。

苦しい決断でしたが、夫婦で出した答えは、妊娠継続を諦めることでした。

陣痛を起こしての出産でした。
波のように来る陣痛は悲しいものでした。
早く出てきて欲しい、会いたくない、相反する思いの中、息子はするりとお尻から出てきてくれました。
産声はなく、私と夫が叫び泣きました。

初めて息子と対面した時、たくさんの浮腫みを抱えた息子を見て、

「ごめんね」としか言えなかった。受け入れられていない自分が情けないです。

出棺の前夜、家族がくれた池川先生の体内記憶の本を読むことが出来ました。

息子に「ごめんねではなく、ありがとう、と伝えたい」
そう思うことが出来ました。

「なんで私が」ではなく「私を選んできてくれた」

そう思うと、息子が来てくれた意味を考えられるようになりました。
いつか息子に、どこかで会える日がきたら、もう一度ありがとうと言えるように。
生きていきたいです。

2011.11.11 投稿者:こころ

私には4人の子どもと生まれなかった2人の子どもがいます。

3人産んだ後の4回目の妊娠に悩んで悩んで、
やっと産む決心をしたと思ったら、5か月に入るころに
その子の心臓(出産後肝臓も体の外にあったことが分かりました)が
体の中に納まっていないことが分かり、

その後1か月もしないうちに空に帰っていってしまいました。

そんな重い障がいを抱えていたためか、
生まれた時、もう5か月に入っていたのに
本当に小さな小さな赤ちゃんでした。

それなのに5か月もおなかの中で生きていた。

普段の忙しさにまぎれて、なかなか供養もしてあげられませんが、
よく頑張ったよね、と今でもふと呼びかけたくなることがあります。

その1年後、死産した子を妊娠した時と同じ時期に再び妊娠し、
経済的なこと、身体的なことを心配して
周りは皆産むことに反対しましたが

(ですが、その前の年に亡くなった父が、
母の夢の中に出てきて私の妊娠のことを告げていったらしいです
その時、私は母には何も伝えてはなかったので、
父はあの世から応援してくれたのかなと思ってます)、

私にはどうしても中絶することはできませんでした。

今ではその子も4歳になりました。

死産した子は男の子、生まれた4番目は女の子、
性別こそ違いますが、
きっと、戻ってきてくれたんだと
私は勝手に思っています。

もう一人は4人目の後ですが、
多分2か月くらいで自然流産してしまったみたいです。
産婦人科でそう告げられました。

そのとき、仕事も家も忙しくて
気づいてすらあげられなかったことを
今でも後悔しています。

2011.10.31 投稿者:のりきち

先日、初めての子供を臨月で亡くし死産を経験しました。

優しい主人と結婚し、子供を授かったことは私にとって幸せそのものでした。
国内外様々な所を旅行したり、スポーツジムに通うなど1年弱の充実した二人きりの生活を楽しんだ後に妊娠。

性別が分かる頃には主人の希望していた女の子だと分かり、名前を考えたり週末は二人でベビー用品を探しに行くのがとても楽しく、幸せの絶頂でした。

そんな妊娠8ヶ月の終わり、いつものように検診に行くと「赤ちゃんが小さいので念のため大きな病院に診てもらって下さい。」と紹介状を渡されました。

1週間後、国立病院で言われたことは『低体重、心臓に穴が開いている、弁の形が悪い、部屋もきれいに4つに分かれていない、肺動脈が見えない、小脳が小さい、胃が見えない』という素人の自分にも分かるくらい深刻な症状でした。

その夜は眠れないまま過ごし、次の日には「うちの病院では対応できないので子供専門の病院を紹介します。」と言われ慌ただしく救急車で搬送され、検査入院となりました。

転院した病院では18トリソミーの可能性がきわめて高く、胎内で亡くなることが多い。また仮に出産できても短命であると宣告されました。

そして今後の治療の方針を定めるために羊水検査を受けることに。

結果が出るまで2週間。毎日『どんな体でも良いから生きていて』『でももし生きられないならどうか苦しまずに天国に行けますように』と相反した願いを胎動を感じるお腹をなでて泣きながら祈りました。

2週間後、検査結果を聞きに病院を訪ねエコーを見た瞬間『あれ、心臓動いてる…?』とたんに自分の鼓動が早くなるのを感じました。

しばらく診ていた先生が「これが心臓なんだけど…」と言った瞬間に全てを察し、泣き崩れました。

「…一度心臓が止まったらもうだめなんですか?」混乱した頭で尋ねると「頭蓋骨の表面の皮膚の浮腫の具合から今日亡くなったということはないと思います。」と言われました。

2日前に急に胎動が少なくなったような気がして慌てて診てもらった時はまだ元気だったのに…。

呆然としたまま別室で羊水検査の結果18トリソミーだったことが判明したと告げられました。

後日、人工的に誘発しての出産。肉体は少し痛んでいましたが心から愛しいと思える可愛い娘でした。

それからの3日間そっとなでたり、ほっぺたにキスをしたり添い寝をして過ごしました。

出産から4日目の朝、主人の用意してくれた小さなピンク色の棺に寝かせ、私のウェディングドレスのパーツの一つをベール代わりにかけてあげて天国に旅立たせました。

はるちゃん、あなたはこの世に生は受けられなかったけど、戸籍にも載らないけど永遠に愛する私たちの長女です。

そして短い命と知りながら私にたくさんの事を教えるために勇気を持って生まれてきてくれたことに感謝します。

天国での休息に飽きて、いつかまた産まれても良いと思う時にはどうか私たちを選んで下さい。

まだ親になるという事も分からないような未熟な人間だけど精一杯愛し、幸せにする努力をするから。

そしてどうかまたあなたを抱きしめさせて下さい。

2011.10.19 投稿者:ななこ

私達夫婦には高校2年、中学2年、4才の3人娘がいます。3人とも知的障碍を持っています。

この子達を産むのには合わせて12回の流産、1回の死産を経験しました。

こんなに沢山の流産を経験した人はあまり聞いたことはありません。
「流産してもいつかは産むことはできる」との主治医の話で奮起し、その時はもうそんなに若くなかったため私には悩み、挫折している時間はありませんでした。

流産した子の中には映画と一緒の16トリソミーの子もいました。3女の前年、16週で死産をした子は男の子でした。

自分の子どもを火葬場に連れていき、16週だったので何も残らず、跡形もなくなった火葬台を見たときは哀しみが頂点になりました。
今でもその光景は忘れられません。

でも私も男の子を産める可能性があるんだと単純に嬉しかったでした。

どうしても(何がそうさせたのかはわかりませんが)女として子どもを産んで育てたかった・・それだけでした。

自分自身の染色体の異常から流産を繰り返すことは3度目の流産の時に初めて知りました。その当時「習慣性流産」と言われましたが今は「不育症」です。

「あなたに異常がある限り、まともな子供が産める訳がないから」と堕胎をしなさいと親兄弟からは毎回言われました。

でも、主人ととことん話をし、羊水検査もしない、同居していたのを引越しすることも決断してくれました。

自分で産むことが出来ないのならば、「里親」を考えようとしたこともあります。でも、子どもが産めれる可能性がある限り自分で産みたい、自分の体に挫折しながらでも産みたいと思うようになりました。

3人の娘は私の染色体異常から3人とも私と同じような染色体の異常を持って産まれてきました。
この子達は「奇跡」です。長女や私と同じ染色体の子も流産しています。

回数を重ねる度に流産した子に対しての感情が薄くなってしまっている自分に腹が立ったこともあります。どうして周りの人は1度や2度くらいの流産で出産できるのかと羨んだこともあります。手術の回数が増える度に麻酔が効かなくなっていることも恐怖でした。

死産した子意外、10週以上私のお腹に居なかったことも今となれば意味があったのだと思っています。

医学が発展しても人間の体はわからないことはいっぱいあります。

子どもを産むことはもう私は無理ですが、でも産みたいと思う人の気持ちを、経験を活かし寄り添って話すことをしていきたいと思っています。

2011.08.06 投稿者:かんてんまま

出産までの経過は・・・妊娠、5ヶ月のとき胎児に『浮腫』ありとの判断で
大学病院に転移しました。その後検診の時お腹がパンパンでカチカチだった為
緊急入院する事になりました。切迫早産、羊水過多症でした。

張り止めの点滴ウテメリンを始め入れていたのですが、肝臓数値が高くなり
激痛を伴いマグセントという点滴にかえたのですが、副作用で全身筋肉が低下し
ベット脇に、ポータブルトイレ、内診もベット、食事もまったく出来ず・・・
そんな入院生活でした。

羊水過多で、とても苦しく息も吸いずらくなっていきました。
羊水除去処置を3度ほどしました。お腹に針を刺し羊水を抜くのですが・・・
一度目は麻酔なしだったため、気がおかしくなるほど痛みを伴いました。
針が腹膜を越えるのでその間痛みは強烈です!今思えば出産より痛かった!

さすがに、二度目から麻酔してもらいました^^v
抜いてもまた羊水は増えるのでまた、抜くという繰り返しです。

食事も食べたら 吐いてました。水も少しでも飲むとお腹がチクチクして痛くなった。
お腹に入る物が容量がオーバーしてしまってたのです。
8ヶ月だというのに、お腹は臨月の妊婦さんなみ><

胎児は、関節が拘縮する病気だったため、動けず胎動もなく、毎日看護師さんに胎動ありますか?って聞かれるのですが、とても答えるのが辛かった。

肺や胃の発達も遅れていたので、羊水も飲めてない感じでした。

医者には18トリソミーの可能性があると言われてきました。
18トリソミは短命だそうです。染色体検査をすすめられました。

羊水除去すると同時に検査もしました。後日・・・結果は異常なしでした。
喜びました!生存率が上がるのかな?とその時は思いました。

MRIもしましたが、小児科の先生達に分娩後すぐお任せする事で精一杯です。
(後日、赤ちゃんの病名がついたのが、ペナーショッカー症候群と、関節拘縮症でした。)

そして、運命の日は近づいてきて・・・おしるし、破水の兆候が見られて来た
5日後位の事でした・・・陣痛室に移動しました。

羊水が多く子宮が延びているため微弱陣痛でした。
陣痛促進剤の点滴を入れましたが、あまり効果なく・・・数時間後点滴量を上げました。

隣のカーテン越しの妊婦さんは、陣痛で苦しみまくっていました!これが陣痛なのか・・・(汗)

私はというと・・・陣痛室に、移動したのにもかかわらず、会社の方のお見舞い、いとこの
お見舞いと、多少の生理痛的な痛みはあるものの・・・普通に会話していました。


そして・・・丸一日たち、お昼頃、先生に破水させましよう!と言われ・・
処置室で、人工破水させました。その瞬間!私のパンパンになっていたお腹から
ザッバーン!羊水がすべて抜け、大洪水!私は、看護師さんに『あぁ~楽になったぁ~』
と一言(^^;)先生はびしょびょw処置室も洪水w そしてすぐに力みたくなり

分娩室へ・・・やっと我が子に会える。不安と早く楽な身体になりたいのと 緊張で、
38時間の陣痛を乗り越えて無事出産!

今思うと、息子が小さく産まれて陰部の破裂も数ミリで・・・陣痛も痛み和らげてくれて
親思いの優しい子だったなぁ・・・。

産まれてきても声は泣かず・・・
すぐ小児科チーム総動員の隣の部屋に連れていかれ蘇生手術しましたが・・・

そして、48分後息子と初対面!息はしていませんでしたが、お母さん大好き!
ってお顔で伝わりました。とてもとても可愛いお顔でした。

今では、色々な人たちと出会い、夫との絆を深めてくれた息子に感謝とお別れの
涙でいっぱいです。半年間、ありがとう、と息子に伝えたいです。

2011.07.18 投稿者:みき猫☆

結婚後1年、なかなか授からずもしかしてと思い不妊治療をはじめ、いろいろな原因がわかり、手術も受けました。10か月後妊娠。
すごくうれしくて、うれしくて、2か月でしたが、心拍も確認できて、両親、祖母、友達みんなに知らせました。
そして8週で、出血、9週6日の検診で、稽留流産といわれ。
8週6日で成長は止まっていました。
超音波の写真にうつっているわが子は、とてもかわいかった。
検査の結果、私が原因でした。
育てれなくてごめんね。
苦しい思いをさせてごめんね。
1年少したちましたが今でもこれからもずとあの子は、心の中にいます。

2011.06.29 投稿者:mame

東北大震災があって、しばらくたった3月17日に…。
妊娠7ヶ月入ってまもなく、異変があって2日前からいつものいってるクリニックに通院をしてたのですが、この当日前期破水し陣痛が来てしまって、クリニックの受付前で倒れてしまいました。

そして、母子ともに危険な状態だったので赤十字病院に救急搬送されて手術開始から30分で帝王切開の切り口拡大の大手術で13時05分に赤ちゃんがうまれました。

産まれたときは手足も元気で心拍もあったのですが、容体が急変して17時17分に亡くなってしまいました。

手術が終わりほっとして、いきなりよびだされ、ベッド越しに保育器から出てきた我が子を見たときにわずかに動いている姿をみて、涙がでました。

ただ、わたしたち夫婦にお医者さんから『もう時間の問題です。一生懸命この世にでてきてくれたのでおとうさんおかあさん、手を握ったり、頭を撫でてあげてください。と、言われました.
わたしはなんのことかわからず、気がついたら『0』という心拍数…。
『ご臨中です』と告げられても、触るのもやめなかった私達夫婦は現実を受け入れられませんでした。

嵐のようにすぎていった1日でしたが、ようやくあたしもおちついて先日退院とその足でお葬式をすませてきました。

ちゃんとおなかから外にでてきてくれて、精一杯生きてくれてちょっとでも一緒にいれたので本当によかったです。
入院してから退院まで同じ部屋で赤ちゃんといました。
毎日こまめに遊びにきてくれて、ドライアイスをかえにきてくださった看護婦さん。
毎日朝から夜遅くまで絶え間なく病院にきてくれた大事な友達や会社の方、先輩.

こんなにつめたくなってる赤ちゃんを抱いてくれて感謝しています。
普通なら拒絶するはずなのに…。
いけなくても必ず連絡をくれて涙を流したと心配してくれた友達や先輩。
同時期に出産予定だった友達も精一杯私達の分まで産んでほしいです

産まれてきてくれて気づかされた大事なことがたくさんわかりました。

産まれてくることは奇跡。

命がけで産んだこと、おなかの傷も忘れません。

多くの友達や先輩が言ってくれた、『なんて声をかけていいかわからへん。けど、ほんまに力になるからなんでもゆってな』

正直言うのには勇気がいりました。いわんとこうかとも思った。
でもうまれてくるのを楽しみにしてくれるのもわかってたし、思い切っていいました。

一人一人のメールや言葉、手紙、何も言わず顔を見て涙を流してくれたこと忘れません。ほんまにありがとう!!!

そしてふらふらになりながらも、一生懸命毎日看病しにきてくれた、4人の親。

そして、どんなときでも自分も辛いのに1番近くでわたしと赤ちゃんを守ってくれた旦那ちゃん。

本当に感謝しています。ありがとう。

めったに泣かないのに、子供ができて悩んだときも、NICUでも、あかちゃんを見送る最後も離れず、大泣きしてたことも忘れません。

最初は赤ちゃんを2、3日たったら霊安室にいれる予定でした。

大概のお母さんは現実を受け入れられず、霊安室にすぐ預けます。大概のお母さんは他人の子供も見るのも嫌になるそうです。その気持ちもいたいほどよくわかります。

でも状態もよく、硬直もなかったし、私自身産まれてきてくれたから一緒にいれるときは一緒にいようと思い、看護婦さんと相談し退院までそばにいました。
赤ちゃんはかわいいっていうのもよくわかったし、こんな状況やけど病院で新生児みても自分の子が1番やとも思うし冷たくなってるけど、変わらずこの1週間遊んだり、看護婦さんの提案で母乳ぬってあげたり、話しかけたり、だっこしたりしました。
今では一緒に過ごせて、やれるだけやったので後悔はしてません。

まだまだ心の整理には時間がかかると思います。
人前で泣くのはいややと思ってましたが、今は無理をせず泣けるときに泣こう、辛いときは辛いとも思うようにしました。

佑ちゃんが産まれてきてくれて気づかされた大事なことがたくさんわかりました。

あんなに妊娠中不安だった子育てができるかどうかですが、今はまた大変でも子供がほしいと思うようになりました。

これから一生この事を忘れず、気づかされた大事なものも忘れないようにしたいです。
震災でもたくさんの方が大事なものも大事な人も失ってる人がいます。
でも前向きにひたむきに生きている姿は毎日TVをみて勇気と元気をもらいました。

辛さの形はそれぞれ違うけれど『上をむいて歩こう』と思いました。
いつまでも悲しんでいたら、あかちゃんも安心して天国にいけないとも思うし…。

落ち着いたら、また次にあかちゃんの分身をつくれるように前向きに考えてるので応援してください。

もうすぐ49日。まだこの世をさまよってると思うので毎日話しかけようと思います。

2011.04.29 投稿者:あっちゃん

2010年11月17日 27週で我が子を死産しました。
4月に結婚式をし、すぐの妊娠でした!

わくわくドキドキの妊娠生活。
6か月検診の時、小さいと言うことで大学病院へ。

色々調べられることはやっても、赤ちゃんは小さいだけで他に異常はない。
私の血栓の値が少し高いと分かり薬を飲み始めましたが、赤ちゃんは大きくならないまま
お空へ行ってしまいました。

陣痛を起こし分娩しましたが、両方の両親に見守られながら綺麗な形で出てきてくれました。

275グラムと本当に小さな赤ちゃんでしたが、本当にかわいい!
この瞬間を体験したら、親が子供を心配しすぎる意味がわかりました。

優しい子だったので、「優星」とつけました。

父は、この事は絶対意味がある!っと言ってくれました。

両方の父、母は本当に子供が好きで、早く孫を抱かせてあげたい!っと強く思いました。

主人にも。

分娩後、色々な検査を重ねていく中で、
私が「抗リン脂質抗体症候群」だということが判明。
元気で健康が取り柄なのに。

どうして・・・っと思うなか、胎内記憶や、
お腹に宿ってくれた赤ちゃんは、どんな結果であろうとお母さんを幸せにするために
やってくるっと言うことを知り、前向きになれていました。
優星がこの病気を教えてくれたと。

退院してからも薬を飲みながら経過をみています。

そんな中、今年の1月父が急死。
お正月もとっても元気だったのに・・・

1週間の入院中もこん睡状態でしたがそばにいてあげられました。

今思えば 優星は分かってたのかなっと思います。
お腹大きかったら、お父さんのそばにいてあげられなかったし・・・

今月結婚1周年をむかえられました。
1年間の間に大切なひとを2人も失い悲しかったですが、
今は経過を見ながら妊娠OKがもらえたら、がんばるつもりです!!

優星と父がやってきてくれることを祈って・・・

2011.04.13 投稿者:ぱなこ

妊娠9週目だったママです。

今日、定期検診で産婦人科に行ってきました。
検診結果は繋留流産とのことでした。
結婚4年目初めての妊娠。喜びの中の出来事です。

友達にこの本「うまれる」を去年貸してもらい、第2章まで
読んでいました。

こどもは私たちを選んで来てくれた。
一番落ち込んでいた時期での妊娠に本当にありがとう、
来てくれた時から、やさしい子だねって言ってました。

繋留流産・・・全く流産の症状はなく
毎日成長を心配していた親心をくみ取って
くれたのか、最後まで親を気遣ってくてたのだとそう思います。
最後までやさしい子でした。

この本を最後まで今日読みました。
励まされ、前を向かなくちゃとの思いももてました。
まだ気持ちの整理には時間はかかりますが、この子の分まで生きていきたいと思
います。
そして、またいつかパパとママになりたいと思います。
自分たちの命も、子どもの命も大切に今を生きたい。

うまれるに出会えてよかった。
ありがとうございます。

2011.02.13 投稿者:吉田 美希

結婚して5年目に授かった待望の長男を38週と4日で死産しました。

4日前の健診では何もなくずっと順調に大きくなっていたのに。

おしるし陣痛と本に書いてあった通りの経過で、いよいよ逢えるんだと期待に胸を膨らませ病院に着くと助産師さんが心音を確認出来ない様子、他の助産師さんに代わり先生も来て心臓が動いていないと知らされました。

私は何かあった時の為に市内では1つしかないNICUのある病院を探して出産に臨んだので、産まれてくれば助かるかもしれないと頑張りましたが、産声を聴くことは出来ませんでした。

少し小さめだったけど、本当に本当にかわいくて、いとおしくて、きっと生きて産まれていても同じ気持ちになったんだろうなと思いました。

出産が夏だったこともあり、ずっと一緒にいることはできませんでしたが、抱っこしている時には何故か涙は出ませんでした。

病院の対応も良く、普通に産まれた子と同じように○○ベビーと書かれた名札を付けて連れてきて下さいました。私たちは亡くなっている人と写真は撮ってはいけないような気がして、カメラもビデオも持ち帰っていたのですが、助産師さんが何度も写真を勧めて下さって、3人でならと退院の日に撮ってもらいました。

その写真が今でも私たちの心の支えになっています。

私の退院と同時に火葬をお願いしていたので、入院中はこの子のために出来ることをやろうと主人と二人で決め、棺に入れるお守りや折り紙を作ったり、子どもの手足型を残したり、着替えをさせてもらったり、子どもの為に何かをやることで前を向くきっかけになったのかもしれません。

あれから5年、周りの心無い一言に傷つき涙することも多々あります。

でも今また新たな命がお腹の中で育っています。きっと不安も無事に産まれるまでずっと付きまとうでしょう。

でもお空にいる息子が付いてくれてると思って頑張ります。

【うまれる】私はこの映画のことを今日初めて知りました。まだやっている劇場もあるので、主人と観に行こうと思います。

きっとつわりが治まった今見付けたのもお空にいる息子からのメッセージなのだと思います。

2011.01.19 投稿者:はるママ

2009年12月7日に、18トリソミーで長男を死産。
そして今年11月25日に、次男を子宮内胎児死亡のため、人工流産しました。

第一子になる長女を帝王切開で出産したとき、周囲の悪意の無い言葉で傷つき
いわゆるバース・トラウマを抱え、長男はVBACに挑戦するために
設備の整った母子専門の大きな病院で健診を受けていました。

何の問題も無いと言われ続けて、8ヶ月目の健診を3日後に控えた金曜の朝、出血があり受診。
羊水過多、切迫早産、即入院の指示。

入院担当医ともう一人の医師がふたりで超音波画像を見ながら 
小声で会話しているのを必死で聞き取りました。

食道断裂、胃が見つからない、手が…足が…

思えば 初期から不安を抱えた妊娠生活でした。
どんどん大きくなるお腹、夕方になると張って苦しい、
出血の数週前からは毎朝明け方にお腹の張りで目が覚めるほどでした。

健診時に 外来担当医に相談しても、特に何も言われず…
長女の妊娠生活がとても安定した楽なものだったこともあり、
妊娠とは、普通はきっとこういう辛さもあるものなんだ と思っていました。

一旦は即入院を指示されたのに、月曜に変更になって帰宅を許されたとき、
お腹の我が子が、おそらく保護しても助からない状態であることを悟りました。

29週と2日目でした。
世の中に、こんなにも辛く悲しいことがあるんだということを知りました。

失った長男をどうしても取り返したくて、望んで望んで妊娠。
安定期に入り、周囲に報告をした矢先、21週と2日目の健診で
「動いてない」と言われました。

転院し、21週と5日目に促進剤をつけての人工流産。
処置を始めてから、少なくとも4日程度はかかる もしくはそれ以上と言われてたのに
2日で会いにきてくれました。母親想いのとてもとても優しい次男。

なんでこんなことになったのだろう…
とてつもない虚しさから、まだ抜け出せずにいます。

赤ちゃんを心待ちにしていた3歳の長女は、時折思い出したようにしくしく泣き出します。
「赤ちゃん抱っこしたかった」「赤ちゃんみんなに見せたかった」「赤ちゃんと遊びたかった」

映画は、次男をお腹の中に抱いて、一人で観に行くつもりでいました。
長男が、もし今も生きていたなら、どんなだったんだろうと、今はない未来を見るために。

どうかもうしばらく 勝手ながら私の気持ちがほんの少し落ち着くまで
上映されてますように。

2010.12.05 投稿者:輝

私は、間もなく結婚丸6年になろうとしています。

なかなか授かれず、不妊専門医にかかりました。
治療を続けても、なかなか結果は得られず、高度治療にステップアップです。

通院にも時間がとられ、仕事とのスケジュールもやりくりが出来ず、休職して、不妊治療に専念しました。

毎回の会計は数万単位。月で言えば、数十万。
何とかやりくりは出来ていたものの、やはり、金銭的に辛かったです。

もちろん、肉体的、精神的にも。。。。

何度かの高度治療を経て、初めての妊娠反応。
でも、ホルモン値が悪く、脅かされっぱなしの妊娠生活。。。

普通なら、胎嚢も確認できないまま、流れ出てしまう程のホルモン値だったにもかかわらず、
しっかり大きくなっていく胎嚢。

期待と、不安の数週間、、、、だけど、その子は天使になりました。

その後も、治療法を見直し、高度治療に挑み、再度妊娠。
ホルモン値もよく、期待が膨らみましたが、
小さな胎嚢は、出血と共に流れ出てしまいました。

自宅で胎嚢を受け止め、手足がガクガク震えながら、泣きました。

「ホルモン欠乏状態が長く続いた為の、子宮発育不全が原因です。」
医師からの言葉に愕然としました。

私のせいで、産まれてこれたはずの赤ちゃんを死なせてしまったの???

その後、不育専門医を訪ね、詳しい検査をしてもらい、その他にも原因があり「不育症」と診断を受けました。

その頃、この映画の存在を知りました。
まだ、製作中で、公開を待ち望んでいました。
一番、関心のある「命」
公式サイトも、こまめにチェックしておりました。

不育症と診断され、治療法も提示され、不妊+不育の2人の医師にバックアップを受けながらの高度治療で、
2010年の秋に3度目の妊娠が確認できました。

ドキドキしながら、不妊治療の病院でホルモン補充を続けながら、不育専門医で不育治療を受け。。。。

先の2人の子の成長は越せたものの。。。。心拍が止まってしまい流産となりました。

流産処置を受けて、1週間後に映画を見に行きました。
まだ。公開されたばかりでしたし、いつまで上映しているのかも分からなかったので、
県外の劇場まで、夫婦で出向きました。

胎内記憶。。。。母となる不安。。。。死産した母の気持ち。。。。

あと、アニメーションと歌の、天使ちゃん達

うちの子たちは、何を伝えに我が家に来てくれたんだろう?
短い命だと分かっていても、着たかった家庭なんだよね。
お空で、こっちの事見てるのかな?

色々、考えさせられました。

その後、3度目の妊娠は、詳しい検査で、染色体異常が認められ、
お腹の中で終わってしまった命でしたが、与えられた命を全うしたと知りました。

今でも、我が家にやって来てくれた命のことを思うと、涙が出ます。

でも、お空で、私達の事見てくれてるんですよね 。
泣き虫な、ママだけど、またやって来てくれるかな?

パパと仲良く笑っていれば、来たくなるよね?
待っているからね

2010.12.04 投稿者:ポニー

今年の9月30日に死産しました。

あれから2ヶ月がたちだいぶ気持ちも落ち着きました。
でも、赤ちゃんの写真を見たり、出産日が近かった友達の赤ちゃんが無事にうまれたという話しを聞いたりすると、今でも涙が止まらなくなります。

みんな無事に出産しているのになんでわたしだけ???と思う時があります。

でも、赤ちゃんが自分の命が短いと知りながらも私を選んで私のお腹に宿ってくれたのだとしたら、私が悲しんだり、周りと比べて落ち込んだりしていたら赤ちゃんがお空の上で悲しむだろうなと考えるようになりました。

赤ちゃんのことは一生忘れられないと思いますが、少しずつ前を向いて笑顔で生きていきたいと思います。

2010.12.03 投稿者:ミーツ

今年の2月、2人目の子供(娘)を36週で常位胎盤早期剥離で死産しました。
その時のことは全く突然の事で、今でも早く病院に行けば助かったのでは?と自分を攻め続けています。

産まれた娘は綺麗な顔をして眠っているようでした。
私と旦那は火葬の日まで2日半抱き続け泣き、医院のスタッフの方々も皆で抱いて泣いてくださいました。

もの凄く楽しみにしていた娘だったので、本当は手放すの嫌で納骨もしたくなかったのですが、親の強い勧めで取り出せないお墓へと納骨しました。

それから今までの間、今でも妊婦さんを見ると辛く、目をそむけ、怒りさえ感じてしまいます。
「上にお子さんが居るから」「また次があるから」
など言われ、納得がいかずともそう自分に言い聞かせていました。

しかし一番悔しいのが、今看護学校の通信過程で学んでるのですが、娘の出産前も死産後もそこの教論に「お産は病気じゃないから」という言葉を何度も言われました。
私的には「病気じゃないから何なの!?」という思いで憤りを感じています。

お産は病気じゃない・・・
その言葉の意味するところは何なのでしょうか?
病気じゃないから甘ったれるな。
とでも言いたいのでしょうか?

確かに昔からよく聞く言葉ではあります。
でも病気じゃないからこそ、何がおこるか分からないから怖いんじゃないでしょうか?
病気であれば少なからず治療法や対処法があるけれど、突然起こる死産や流産は予測できないものであり、それを含めたお産は軽視しちゃいけないと思うんです。
少なからず看護を教える立場の先生からは聞きたくない言葉でした。

そういった沸々とした日々を送る中で、どうしても失った娘を取り戻したくて現在子作りをしています。
しかし、なかなか出来ずに月一のものがくると落ち込んでしまい、だんだん疲れてきました。
今は不妊症で悩む方の気持ちが少し分かったような気がします。

この映画が私の地域では来年1月に公開と本日知りました。
無事に元気に産まれてくるシーンは辛いと思いますが、何か自分の中に芽生えるものがあれば良いなと期待して公開を楽しみにし、必ず観に行きます。

楽しみにしています。

2010.11.30 投稿者:愛沙のママ

私は22週と24週と2度の死産を経験しました。

検診などでは、全く異常がなくどちらも突然の出来事でした。
1度目は自分の中で受け止めるのが精一杯でした。

2度目、まれに起こるこの出来事がなぜ私に2度起こるのか・・・
もう少し早く気づいていたら助けられたのではないか・・・

悲しみの中いろんなことを考えすぎて人にも会えない、電話にもでたくない
よそのあかちゃんをみれないという状況が続きました。

でも、思いっきり落ち込んでしまおうと思いました。

時間がかかりましたが、この"時間”と主人の支えが薬になりました。
他人の言葉にもずいぶん傷つき落ち込みました。
人は自分が経験したのではないからわからないのです。

これは自分で乗り越えるしかないと思いました。
そして他の子供さんをみても無事に産まれてこれてよかったねって心から思うようになったのです。

1度目はまれにおこることとして
あまり検査もされませんでした。

2度目ともなるとやっとここで病院側もさまざまな検査をしてくれるのです。
結局いくつかの原因がみつかり、治せるものは治していこうといったものでした。

私側の原因だったのでもう少し早くに検査をしていたら、二人目は助けられたかもしれません。

身体も落ち着いてきたころ、もう一度頑張ってみようと思いました。
すると次は"不妊”で治療が数年続きました。

何回か病院を変え、"不育症”に詳しい先生をみつけて通院を開始しました。
これでダメだったら、もうこどもはあきらめようとAIHをしてみました。

それでやっと授かったのです。

妊娠したら今度は前回の妊娠の週数を超えれるかどうかの不安な毎日でした。
大学病院を紹介してもらい、そこでとても良い先生にめぐり合いました。

22週直前までは毎週の受診、22週から出産まで管理入院です。
入院しても治療はなにもないのですが、毎日の心音を聞くだけでも私にとって
みたらとても意味のあるものでした。

そのときに先生がおっしゃったのが、私のおなかの子は”バリュアブルベイビー”
貴重児というそうです。そしてこの子を無事に出産できました。

産まれたときには本当に良かったねと声をかけてくださって、病院や先生との出会いも
2人のこどもたちがいたからこそかもしれません。

まだまだ書ききれないことがたくさんありますが、
この映画のことを知り、いろいろなことを思い出しました。
是非みにいきたいとおもいます。

2010.11.21 投稿者:bonhanabon

今年の7月、
陣痛が始まり病院に行くと
突然「心臓が動いていない。」
と言われました。
これまで何の問題もなく順調そのものだったはずが、なぜ・・・と
谷底に突き落とされた感じでした。

しかし、静かな出産であっても
腕に抱いたわが子はこの上なく愛しく、命の尊さが痛いほどに感じられました。
私達夫婦は最高の幸せと哀しみをいっぺんに味わいました。

夫婦で支えあい、家族に助けられ、
また空へ還ったわが子からも様々なメッセージをもらったことで
その出来事を愛情で包んで
受け入れられるようになりました。

その3ヵ月後の10月、
今度は私の父が亡くなりました。
私は5人兄弟。
5人の子どもを守り続け、愛し続けた父も
天へ召されたのです。
転移性肝臓がんでした。
父は
「死ぬのはこわくない。
 これでいいんだ。」
そう言って穏やかに逝きました。
病身にあって、
私達に精一杯の生き様と
死は終わりではないということを教えてくれました。

そして、今
私のお腹には新たな命が宿っています。
命のバトンが引き継がれています。

普通に生きてきたこれまででしたが、
今年は命について考えざるをえない
さまざまな出来事がありました。

生きることは素晴らしいこと。
それに気付きさえすれば・・・。
私達は、
連綿と続く命の帯をつないで
今、ここに生きている。
そう実感しています。

2010.11.14 投稿者:ひまわり

2008年12月。
妊婦健診で心臓が動いていないことがわかり
翌日、陣痛促進剤を使って娘を出産しました。

妊娠38週目の出来事です。

妊娠中、切迫流産や切迫早産と診断されたことはありましたが
娘の成長は順調そのものでした。
実際生まれた娘は、外見も綺麗で何の異常もありませんでした。
お腹の中での「突然死」とのことでした。

それから2年が経ち、私は再び妊娠。
現在妊娠9ヵ月半ばです。

これも何かのご縁なのか、出産予定日は娘の出産予定日の一日違い。
2年前の日々を取り戻すかのような毎日です。

不安がない訳ではありませんが、むしろ不安しかないですが
見守っていてくれているであろう娘とお腹の赤ちゃんを信じて
毎日を過ごしています。

地上には秋に5歳になった息子しかおりません。
ですから、一見すると一人っ子の優雅なママ。

心ない人は「一人っ子は可哀そうよ」だとか
「兄弟がいた方が子どもは伸びるよ」とか
よその家庭に土足で踏み込んできます。

そんなのほんっと余計なお世話です。

まぁ、いちいち言い返すのも面倒なので
曖昧な表情と適当な相槌でやり過ごしますが…。

私だって2人産んだんだ。
娘はお腹の中で一生を終えたけど、それでもなお「生まれた」んだ。
大声で言えたらどんなにいいだろう。

娘の他には、初期に流産した小さな天使が2人います。

お空の子ども3人と地上の息子1人。
それにお腹の子が一人。

全部で5人のおかんです。
みんなみんな愛おしい我が子です。

映画館は少し遠いけども、体調が許すならぜひ見に行きたいです。

2010.11.13 投稿者:5人のおかん

2010年9月下旬
予定日よりも4ヶ月早く
産声も聞けない、「おめでとう」の言葉もない
悲しい出産(誕生死)を経験しました。

愛しい赤ちゃんが生まれたこの日が、同時に命日に。

待望の赤ちゃんを授かり、どんどん大きくなるお腹に、
楽しい未来しか想像できなくて、
こんな日が来るとは思いもしませんでした。

妊娠18週と数日で、その生涯を終えてしまった赤ちゃん。
その間には、私や夫、おじいちゃまやおばあちゃま達に
たくさんの幸せを与えてくれました。

赤ちゃんがお腹にいるとわかってからの数ヶ月。
本当に本当に、幸せな日々でした。
きっと、今まで生きてきた中で一番幸せな時間だったと思います。

2010.11.09 投稿者:璃久ママ

おなかの赤ちゃんの成長を楽しみにしていた検診で、
おなかの赤ちゃんが死亡していると診断されました。

妊娠21週での娩出でした。

自分の体調に変化もなく、痛みや出血もなく、
約三週間、おなかの赤ちゃんの異変に気がついてあげることができませんでした。

かなり動揺したのですが、
「あぁ、やっぱり」と思ったんです。

検診に行く数日前に母乳のかわりに血がドバドバでる夢を見たり、
出血した夢を見たんです。

このころから、「この子は生まれてこないのかもしれない」という思いが漠然と心のすみにありました。

結婚4年目、不妊治療を経て授かった待望の、待望のわが子。

わが子は短すぎる命と知りながらなぜ私達のもとにやってきてくれたのか、
そしてなぜお空へ帰ってしまったのか。。

娩出してから一カ月、こたえを探す日々です。

妊娠中に「うまれる」の映画の公開を知り、
「おなかの赤ちゃんと一緒に見に行くんだ」、「私が妊娠中に公開されるなんて運命だなぁ」なんて思っていました。

そして、わが子がお空へ帰ってしまった今も気持ちは同じです。

私が毎日必死に探しているこたえのヒントをもらえるようなきがします。

明日の公開を心待ちにしています。

2010.11.05 投稿者:新米天使ママ

新聞でこの映画のことを知り、今日ホームページを拝見しました。

8月13日たいのうも確認できないまま、流産しました。医学的には科学的流産と言うそうですが…
3歳半の息子がいますが、二人目を心待ちにしていた所のできごとでした。

最初の診察で継続できるかわからないとの診断で、もういちど診察に行く前に出血しました。
私が何かしたのか、どうしてなのかとそんなことばかり考えていました。

主人は「私が悪いわけじゃない。」と言ってくれましたが、主人の両親は泣いてはダメだと…

自然の出血で厚くなった内膜を出したので、すごい痛み 息子の面倒も見れず、主人の両親に近いのでお願いしました。

息子に私の姿を見せたくなかった。

息子も心配してくれ、これで直るよと自分が体に塗るクリームを塗ってくれました。

何の効果もないのですが、その心にやさしさに涙しました。

預けた夜は初めてお泊りしてくれました。息子なりにがんばってくれました。

その後両親はとても心配してくれ、いろんな気配りをしてくれ、感謝しています。

生理も復活し、妊娠OKの許可でましたが、自然にまかせ、また家の子になりたいと思い我が家にやってくる天使を待ってみます。

やんちゃばかり甘えん坊の息子ですが、うちの子でよかったと将来思ってくれたら幸いです。

自分の命 大切な家族の命 考える時間をいただけてよかったです。

ありがとうございます。
映画必ず見に行きます。

2010.11.03 投稿者:弱虫母かな?

今年3月長女を出産しました。

そして2日後亡くなりました。

私は2年半程不妊治療を続け2度の手術をし、
4回目の体外受精にてやっとやっと妊娠しました。

母子共になんの異常もなく、幸せな時間が過ぎていきました。

しかし、39週3日、常位胎盤早期剥離が起こったのです。
前日から前駆陣痛が始まり、なぜか今まで正常だった血圧があがったため、
管理入院となった矢先でした。
激痛と急に下がったモニターの胎児心拍、

「先生呼んで!酸素持って来て!」

内診をした助産師の叫び声。ベッド共手術室に運ばれる私。
何がなんだかわからず

「赤ちゃんは?生きてるんですよね?生きてるんですよね!」

とガタガタ震えながら叫んだのを憶えています。
娘は20分の心停止の後蘇生、NICUのある大きな病院へ運ばれていきました。

私も次の日には外出許可が下り、寝台タクシーで娘に会いに行くことができました。
私が会いにいったときが、一番状態の良いときだったそうです。
目を開けて、一度だけ声を聞かせてくれました。医師は奇跡だと言っていました。

名前を呼ぶと私の方に目を動かしました、まだ殆ど見えないはずなのに、
一生懸命母の顔を見ようとしているようでした。

妊娠がわかった時から毎日話し掛けていたから、
声を憶えてくれていたんだなと思います。

次の日、医師から今後の選択について尋ねられました。
このままやれるだけの治療を続けるか、痛みの除去と呼吸管理のみで
自然な死をむかえるか。腎機能が回復せず、カリウムが溜まり不整脈が起こっている、
腸管が壊死して内容物が腹腔に漏れ始めている…つまり、

延命は難しい

とのことでした。

私は諦めたくなかった、

娘だって生きたい、

助けてって思ってるかもしれない。

しかし、たくさんの管につながれ、時折苦しそうな表情をする娘を見て、
もう楽にしてあげたいという夫の意見に従いました。

NICUのスタッフの厚意により、
帝王切開をしたばかりの私のためにベッドを入れてくれ、
娘と添い寝やカンガルーをさせてもらいました。

最期は親子3人、ゆっくり静かな時間を過ごしました。
お腹の中にいるときのことや、大きくなったらこうしたかったね、
あそこへ行きたかったねと泣きながら、時には冗談まじりに話をしました。

娘は2日という人生を精一杯生きてくれました。

感謝の言葉しかありません。

子供は使命を持って、親を選んで生まれてくると聞きます…
では

娘は私達に何を伝えに来てくれたのか?

ずっと考えていました。
そして、気がついたのです。
私は4回目の体外受精、これでダメなら諦めようと思っていたんです。
だから

娘は「あなたは妊娠できるのよ、諦めないで」って、

短い命の運命だったけど急いで伝えにきてくれたのかなと。

あの時入院しないで自宅に帰っていたら、私は死んでいたかもしれません。
きっと娘が助けてくれたんだと思います。
娘に救ってもらった命を無駄にしないよう、娘に恥じないよう、
前向きに生きて行こうと思っています。

出産後2ヶ月で仕事を始め、
お金を貯めながら、今また治療をしています。

またあの子や弟、妹が私達の元にきてくれますように…。

2010.11.03 投稿者:jellyumi

臨月で赤ちゃんはお空へ帰ってしまいました。
こちらでは書き表せないほどの悲しみ苦しみでいっぱいでした。

でも胎内記憶の事を知り、少し救われました。
赤ちゃんが選んで私達夫婦の元にやって来てくれた、
お腹の中でちゃんと感情を持っていて、私達の愛情もきっと伝わっていたと信じています。

赤ちゃんは、命の尊さ、人の痛み、周りへの感謝・・・たくさんの事を教えてくれました。

自分を責めたり死にたいと思った事もありましたが、
私達夫婦が幸せになることが我が子への恩返しだと思い、
今はゆっくり少しずつ前を向いて生きて行こうと思っています。

妊娠中は喜びいっぱいで、不妊治療をしている人の気持ちも考えずに
行動してしまっていたと思います。

今は街で赤ちゃんを見るのもつらく、自分が体験してみて、初めて人の気持ちを考えました。
今では、感情で子供を叱っていたり、子供の愚痴を言っている人達に対して

『赤ちゃんが授かって、無事生まれて、元気に育ってくれているだけでも奇跡なんだよ』

と言いたいです。

不妊、不育症や流産、死産経験者はもちろん、
現在子育て中の人達にもたくさんの人に見てもらい
命の尊さを感じてもらえるような映画になってほしいと期待しています。

また、少子化対策として子供手当が出来たのは良いことだと思いますが、
「お金があれば産む」とかそういうことではないと思います。

人間の命はもっと尊いものです。

『子供を望んでいるのに産めない』という人達にももっと注目してほしいです。
不妊症、不育症の治療費や、流産、死産経験者の心のケアなども
保障される社会になってほしいと思います。

2010.10.23 投稿者:Y.H

今日からちょうど1ヶ月前、妊娠4ヶ月で流産しました。

流産した子どもを上の2歳の娘に翌日あわせたところ、「あ、またくるよ~!」と第1声。

突然の流産でしたので、私本人が現実を受け入れられないままにいたのですが、この娘の言葉に救われました。

流産する4日前、偶然にも胎内記憶についてお話を聞く機会があり、今思うと運命だったのかと思います。後から振り返って納得できるよう、子どもたちが用意してくれた出来事だったのでしょうか。

私の退院後も娘に聞くと、「あっちからくるよ。」とお空を指差します。

娘の言葉を信じて、またお腹に命が宿ってくれる日を待とうと思います。

2010.10.23 投稿者:また来るよ

今から18年前の出来事です。

予定日1週間前、自分の誕生日の日に、2人目の子供の出産前検診に行きました。
もうすぐ生まれるだろう我が子にいつ頃会えそうかな?
2人目だし、早まりそうかな?
自分の誕生日と重なり、ウキウキ気分でした。

数時間待って、いよいよ自分の番。
でも・・・様子が何かおかしい。
超音波画像でも心臓が動いていない・・・・。

「残念ですが心臓が止まっています」

その後の事はよく覚えていません。
待合室に座っている妊婦さんたちが、とても幸せそうに見えた事だけ覚えています。

2日後、3000グラムを超えていた産声を上げない我が子を、自力で出産しました。
看護師さんも涙する、辛い辛いお産でした。

原因は、へその緒が首に4重に巻き付いていたとの事でした。

その後は何事もなかったように過ごしていましたが、心の底では自分を責め続けていました。
動かなくなっていた事に気づいてあげられなかった自分。
どうして気づいてあげられなかったのだろう・・・。

苦しかっただろう・・・辛かっただろう・・・。
子供を苦しめてしまった自分が、自分のために泣いちゃいけない。

悲しみという感情を麻痺させ、どこか現実感のない毎日を過ごすようになりました。
泣く事すらできなくなってしまったのです。

自分の誕生日が大嫌いになりました。

次の年には妹を授かりましたが、それも、自分の中から辛い記憶を消していたからこそ、
産んであげられたのだと思っています。
忘れようと必死でした。

それから10年ほどたち、まだ受け止められていなかった私に、
当時の痛みが突然蘇ってきた日がありました。
きっかけはやはり子供。長男でした。

どこか感情を封じ込め、自分を追い立てるように歯を食いしばって生きてた自分に、
長男がSOSを投げかけてきました。

私は、自分が悲しみから逃げるために、長男にひどく辛い思いをさせていた事に、
やっと気づけたのです。
長男もまた、泣かない私に育てられ、泣いちゃいけない、わがままを言っちゃいけないのだと、
自分を抑えつけていたのです。

それからやっと、悲しみと向き合い、自分のために泣き、亡くした子供や長男のために泣き・・・
10年間の・・・いや、もっと昔の、自分が幼い頃からの悲しみをすべて解放していきました。

空に帰った赤ちゃんは、私に「愛情」を教えてくれました。
私自身が両親がいない環境で育ち、親の愛を知りませんでした。
そんな私の元に生まれてきてくれた赤ちゃんは、私に命や愛情の尊さを、
現実と向き合う大切さを、自分の命をかけて教えてくれたのだと思っています。

今では長男も19歳になり、3人目の子供も授かり、天国の赤ちゃんに感謝しながら、
生かされている毎日に感謝しながら、幸せに楽しく暮らしています。

2010.10.10 投稿者:kana

私は11週6日で我が子をお空にかえしてしまいました。
私自信が助産師、旦那が小児科医。
ハイリスクばかりみていた私達は妊娠をあまくみていました。
赤ちゃんがこんなにも弱かったなんて…

わたしは助産師として患者さんに多くのことを指導していました。
それなのに、わたしは指導内容を無視し無理ばかりしていたように思います。

次の子がお腹にきてくれたら大事に大事にします。
げんきにうんであげれなくてごめんね。
ちいさい小さいあなただったけど私が今まで会ったあかちゃんのなかで一番愛おしかったです。

2010.09.30 投稿者:まめたママ

58歳男性ですがコメントさせていただきました。(少し体験談の主旨とちがいますが申し訳ありません。)

私は高位型の鎖肛と腸の一部が壊死していて生まれてきました。

普通だったら胎内もしくは生後直後に命が無かったかもしれません。よっぽど命運の強い持ち主とも言われました。生後直後に緊急手術で人工肛門を造設しました。17年間がその生活でした。

障害をもって生きていくのには、精神的な苦痛で、それは険しい道のりで大変です。どのように言い表せばわからないほどです。でも、せっかく何かの縁で命を授かってこの世に生まれてきたのですから、どのような苦難があろうと精一杯生きていかなければなりません。

普通の体(健常者)で生まれて当たり前、それが、なんらかの原因で障害をもって生まれてくる、これだけは、誰のせいでもない与えられた宿命とも、物心がついてから自分自身で考えられるようになるまでは時間がかかりました。

また、そのように生まれてきれ誰もが経験出来ない貴重なことも知りました。それから、17歳から21歳前までの人工肛門を閉じる闘病生活(私の場合はお尻の括約筋および神経機能もほとんど無い状態)で、ほとんど克服の見込みのない闘病生活への挑戦でした。

長い期間がかかりましたが、医学技術(今から40数年前)にしては、ほんと、まれなことですが運良く約95%まで克服できました。これは、術後からは自分自身の努力(練習)も必要で途中で挫折でもしてみるとありえないことです。

また、他にも私とちがったいろんな障害をもって生まれてこられる赤ちゃんもいらっしゃいますが、みんな自分なりに一生懸命、頑張って生きていらっしゃる人もたくさんいらっしゃいます。その姿を目にすると、つい自分のこととスライドしてしまいます。

生まれるって素晴らしいことですが、また非常に心苦しいことですが胎内で天使になられることもありますが生まれてきた以上は悔いのない良い人生を送らるよう願っております。

2010.09.26 投稿者:タ-坊

【2008年3月23日】
当時つきあっていた彼にプロポーズされました。

婚約から数週間後のこと、妊娠がわかりましたが、傷害事件に巻き込まれて流産。
3ヵ月目でした。
色々有りまして婚約者の耳にも入り、犯人が私の親戚(叔父・母の弟)ということから彼の父に断られ破談に。
実際、彼と私の子供を殺したことになりますから。。。
自分の家庭も仕事もうまくいかず私の結婚が妬ましかったと後から叔父本人に聞きました。

【2010年1月5日】
今の彼からプロポーズされ直後に妊娠がわかりましたが今年の1月5日に第二子を流産。
8週目でした。
私があまりにも泣くものだから彼はずっと傍にいてくれました。
絶対私の前では弱みを見せなかった彼、夜中に居間で一人酒を飲み泣いていた。

【2010年5月21日】
5月15日に妊娠がわかりましたが、6週で流産。
婚約解消を申し出ましたが、彼も彼の家族もこのままお付き合いしたいと言ってくれました。
不育症の恐れがあることも話しましたが、彼と話し合い一緒いることに。

今、私は普通に生活して、会社に行って、ときに笑っています。
家族、彼、友人たちの支えがあるから。

周りを見てみ?
実家に帰れば迎えてくれる家族。

流産したときに仕事を切り上げてすぐに駆けつけ、ずっと傍にいてくれた彼。

子育てに多忙な高校時代の友人Eは、私を傷つけまいと私の知らないところで私の気持ちを理解しようとしていた。

本やネットを通じ、経験者の声を聞いたのかもしれないことがうかがえるほど精一杯の温かい声を掛けてくれた。

私の周りの人たちはこんなにも温かかった。

どんなに理不尽なことをされても復讐はいけない、乗り越えて幸せになることが大切。
わたしが周りの人たちから愛されていること。
これを自分の命をもって教えてくれたのは愛しい3人の子供たち。

私の体は子供が産める体ではなくなりました。
でも、もう3人の天使のママです。
いっぱいごめんねとありがとうの涙を流しました。

同じ経験をされた方、無理しないでいっぱい泣いて、いつか幸せに気づけるように。

2010.09.15 投稿者:京

長女5歳、次女0才の間に2回流産しました。
1度目は8週目で心拍確認後の流産、2度目は6週目での流産でした。
何で続けて??なんで15%の確立の中に私が入るの??
そして、また流産するかもしれないのに
あの悪阻をまた経験するのは辛いし・・・(悪阻が酷かったので)と思ってました。
それでも主人はどうしても欲しいと伝えてきました。

それなので3度目妊娠した時は「3度目の正直」「2度あることは3度ある」
どっちだ??と毎日不安な日々を送り、出産するまで毎日祈ってました。
そして、今年無事生まれてきました。

正直、流産した経験があったからこそ
「うまれる」という大切さ、命の大切さが解りましたし
死産、流産などの体験談を読み、もっと辛い経験をしてる方が
沢山いて、そして前に向かおうと頑張ってる事が身にしみます。
(私の母も41週での死産を経験し(私の亡き姉)、今となって、その悲しみが
伝わりました)
勿論、悲しい経験はしたくはありませんし
全員が元気な赤ちゃんが生まれてきてくれる事を願ってるとは思いますが
こうゆう経験が決して人生でマイナスな事では無いと思いました。

最近の虐待や育児放棄の事件・・・
多々ありますが
子育てに悩んでるママにも是非
「うまれる」を感じて欲しいと思いました。

2010.09.13 投稿者:さやママ

結婚してから赤ちゃん欲しいね・・と話しながらも、夏は海、冬はスノボーなど
好きなことを散々して過ごしていました。
結婚して3年目の初夏。陽大が私のお腹に来てくれました。
妊娠がわかったときは、本当に嬉しくて愛しくて愛しくて・・。

私は外科病棟の看護師です、夜勤もギリギリまでしていました。
検診に行くたびに「順調だね」と言われ、本当なら安心できるはずが、なぜか不安。
初めての妊娠だからかな・・なんて思いながら過ごしました。
7ヶ月を過ぎた頃から『赤ちゃん少しチビだね・・お母さんに似た?』と言われるようになりました。
でも検診では『順調』とのこと。
『産休に入ったら、なるべく寝ているようにしてね・・そしたら赤ちゃん大きくなるよ』と。
無事に産休に入り、なるべく横になって過ごしていましたが、
やはりどうしても気になり年末の診療最終日に自ら診察を受けに行きました。
『大きな病院に行こうかね?』それが先生からの言葉でした。
『順調だけど、年末だし念のために大きな病院で診察を受けておいたほうがいいと思う』との返答。
それはどういう意味なのか・・
とにかく、大きな病院へ行き、救急で診ていただくことにしました。
それからは嵐のように時間が過ぎました。
『胎児仮死』『羊水過少』『赤ちゃん弱ってるかも・・』
そんな恐ろしい言葉が飛び交う中、受診して5時間後には緊急帝王切開で陽大を出産しました。
1686g・38cm・・陽大の小さな小さなか弱い産声を聞いたとき、大粒の涙が出ました。

陽大は、うまれてすぐにNICUへ入り、身体中にモニターと点滴、酸素と胃へのチューブ・・。
自力呼吸はできていましたが、次第にむくみも出てきたため人工呼吸になりました。
大きくなれなかったのは心臓が悪かったからだろうとのこと。
陽大は、生まれて19日目に心臓の大手術を受けました。
手術後の経過も波があり、安心できる状態ではありませんでしたが、
陽大は私たちを見付けると甘えたような表情を見せて、口をモグモグさせて・・・
そうして私たちをパパとママにしてくれました。
私は、「陽大、ママよ」「あとは大きくなるだけだからね、一緒に頑張って早くお家に帰ろうね!」と
毎日NICUへ通い、陽大に話しかけました。

「大きくなるだけだよ・・・早くお家に帰ろう!」そういつものように話しかけ、
「また明日ね」と自宅へ戻った翌日、陽大は空にかえってしまいました。
みんなに「ありがとう、またね・・」と挨拶をしているかのような時間の経過があり、
私とパパの腕の中で目を閉じ、スヤスヤと眠ったまま穏やかな表情でみんなに見守られながら。。

うまれて3ヶ月と19日。
その間、陽大を抱っこしたのは5回です。
だけど、今でも陽大の温もりと重さと、ちいさなちいさなか弱い声・・そしてニオイ。
パッチリ開いた目、小さな手・・みんなみんな覚えています。。

「うまれる」
みんな自分でママやパパを選んで、人生を受け入れてママのお腹に入るのですよね。
どうして私が・・??陽大、ごめんね・・。あいたいよ・・。
などなど今でも感じることは沢山あります。
でもこの現状も、全部全部私自身が決めたこと。神様と約束してきたこと。
ただただ目の前の現実をありのままに受け入れる。
それは実はとっても酷で、でも実はすごいことなんですよね。

最近になり、やっと陽大のお墓を建ててあげることができました。
『陽大がこの世で生きた証』です。
「またね」と約束して陽大を見送ったあの日から、沢山の時間が流れました。
いつか必ず会えると信じながら、夢は叶うと想い続けつつ、
陽大を安心させてあげられるようになりたいな。
「うまれる」映画を観ながら陽大を思い出し、陽大を感じて、そしてまた前に進みたいと思います。

2010.09.11 投稿者:ひなたんママ

2010年4月に結婚し、同じ月に妊娠発覚。
元々、双角子宮と言われ妊娠しにくい・・・。そう言われてた矢先の妊娠でとてもうれしかった。
妊娠初期に数回出血があったものの入院する事もなく、安定期にも入り、あと数日で6カ月に入る所まで来たときだった。前期破水・・その時、18週。ほぼ助かる見込みがなく、もし産まれてきても障害が残るだろうと言われ旦那さんと話し合い、出した答えは妊娠中断。
次の日には処置が始まり、8月27日。12時36分。208gの男の子を出産。19週2日でした。
思ってた以上に大きく、体も全部できててその姿を見た時は涙が止まりませんでした。産声を聞くことのない出産。旦那さんがパパとしてやった初めての仕事は死産届を出しにいく事でした。
その2日後、旦那さんと火葬場へ行きそれが最初で最後の家族3人でのお出かけでした。骨も残る事がなく、あるのは心の中の思い出だけです。
けど、この子はあんなに小さいながらも命がけで教えてくれた事は多く、今まで、妊娠=出産だと思ってた自分が恥ずかしくなります。出産できる事が奇跡なんですよね。ましてや、子宮が2つあると言われ、妊娠しにくいと言われた中での妊娠は赤ちゃんが命をかけて教えてくれた事だと思います。それから、妊娠してから情緒不安定になった私からいつも八つ当たりされてた旦那さん。朝早い時間から夜遅くまでいつも仕事してたのに私が辛かった時はずっとそばにいてくれたね。私の前では1粒の涙も見せずにただそばにいてくれて、それが嬉しかった。ありがとう。

小さな赤ちゃんへ
こんな形で産んでしまってごめんね。できる事ならまだお腹のいさせてあげたかった。だってみんなあなたが産まれてくるの楽しみにしてたんだよ。
でも、エコーで見るあなたの姿はすごく苦しそうに丸まってて・・・。羊水とママの子宮がもう少しあれば助かったのかな?あなたはどうしたかった?まだあの時、あなたの心臓は動いてたのに。。
パパとママが勝手にあなたの人生を決めてしまった。今、あなたにはすごくさみしい思いをさせていると思います。もうしばらくはまださみしい思いをさせると思うけど、待っててね。ママがそっちに行った時はいっぱい抱きしめるから。
そして、ママになる喜びを教えてくれてありがとう。
あなたは立派なパパとママの一番最初の息子だよ。

2010.09.07 投稿者:はやと

私の姉は、妊娠6ヶ月の時、子宮頸がんが発見されました。
がんが進行中ということで、お腹の中の赤ちゃんをどうするか、とても難しい状況でした。
3人目の赤ちゃんだったので、もし姉の命が失われたらまだ幼い二人の子どもがかわいそうだ、
そう言って姉の夫は譲りませんでした。
6年前の6月24日、姉の3番目の娘、未来ちゃんは、産まれてきて、その日に亡くなりました。
700グラムの未来ちゃんはとってもきれいで、目を閉じて、静かに横になってました。

本当は、未熟児として育てることが出来たのではないか。
そこは、私には知らされず、姉にはどう説明したのか、真実は兄と医師しか知りません。
姉が未来ちゃんを育てられないというなら、私が育てれば良かったのではないか。
未来ちゃんのお葬式の日、「ごめんなさい」という気持ちでいっぱいでした。

今、私は初めて妊娠をして、8ヶ月になります。
6ヶ月で、このお腹の赤ちゃんとお別れしなきゃいけないというのはどんなことなのか、それ
までは想像しかできなかったけれど、今は痛いほどわかります。
子宮を全摘し、放射線治療に耐えた姉は、今のところ再発はなく5年が経ちました。
姉はいつも私のお腹をさすり、いっぱいいっぱい話しかけてくれます。

先日、「うまれる」の3回目のイベントに初めて参加させていただきました。
ミニコンサートで、涙とまりませんでした。
これからも、未来ちゃんのことを忘れずに、私に授かった新しい命との一日一日を大切に
向き合っていきたいと思います。

2010.08.18 投稿者:あおい

2010年1月、周郭胎盤による前期破水で妊娠継続は困難と言われ、待望の長男を空へかえしました。
破水をしたのが17週。入院して様子を見ましたが状態は変わらず、19週6日分娩しました。
19週なので、死産証明が出され、火葬し、納骨しました。息子は存在していたのに、戸籍にも残らず、生きていた証明が私たちの記憶の中にしかないのは本当に辛いです。死産証明は出されたけど「流産」だという事実と、私の中の「死産・流産」のイメージにギャップがありすぎて、気にする必要のない言葉の定義にさえ振り回され、やり場のない悲しみに囚われ、生きている娘(5歳)や支えてくれた主人を大事にしてあげられなかった時期がありました。情けない母親です。
今はまた家族3人、まだかまだかと息子(または息子が送り出してくれる赤ちゃん)のかえりを待っています。

2010.08.17 投稿者:ぺんぎん

小学2年生の長男と3歳次男がいます。
この二人の間に3回流産しました。

長男が2歳になる前に、2度目の妊娠が分かりました。
経過も順調でしたが、教師をしており、担任があったため、クラスで妊娠のことを話すと
「担任のクセに妊娠なんて、無責任」
という言葉が生徒や保護者から返ってきました。
この言葉がとてもショックでしたが、無責任と言われないよう、少しくらい体がつらくても意地になって働きました。
それがたたったのか、14週の検診で、心拍が取れずぐったりと横たわった赤ちゃんの姿が。
未だに大切にその写真を取っています。
亡くなったのが11週くらいではないかということでしたが、時間がたっていてふやけて膨らんでいるような写真。
私はそれ以降、他人に何を言われようが、絶対無理をしないと決めました。

その後、長男が2歳、3歳のときも妊娠しましたが、いずれも大出血で8週前後に流産しました。
もう、子どもは産めない体なんだと思い込み、長男に兄弟ができないとあきらめていました。

長男が4歳になったころ、再び妊娠。
おなかで死んだ子が帰ってきた!と思いました。
もう、絶対この子は死なせない!と思い、病院を変えました。
度重なる流産で心を病んでしまい、パニック障害を抱えていたこともあり、大きい病院を受診したいと思ったからです。
初期から流産防止のため、薬を飲みました。
薬は飲みたくないなんて言ってられません。必死でした。
途中、3ヶ月と5ヶ月のとき、大出血を起こし、流産も覚悟しましたが、無事生き延びました。
それが次男です。

そして今、通算6度目の妊娠中です。
長男は「おなかで死んだ赤ちゃんが帰ってきたんだよ!」と大喜びでした。
私も、長男の意見に同感です。
今回も流産防止のため、投薬治療を続けながら頑張っています。
きっとまた一人、帰ってきてくれたのだと信じつつ。

2010.08.13 投稿者:ゆっきい

もうすぐ4回目の月命日です。
結婚して12年、待ちに待った長男の出産予定日は3月31日でした。

去年の夏妊娠がわかり、病院へ行き妊娠確定した日に「まだどうなるかわからない、」
と不安になる私とは対照的に夫は「(赤ちゃん)やっと来てくれたんだから早く
みんなに知らせないと!!」と夜には親、姉妹に電話をし、私たちはみんなに祝福
されて幸せな妊婦生活がスタートしました。

名前は、なにごとも成し遂げられる子になって欲しいとの想いから
「成」夫の希望通り漢字一文字。
胎児ネームはなく、ずっとこの名前で呼んでいたので胎動がわかるようになってからの
反応も凄く良かったです。夫の声にも良く応じて動くお父さん思いのいい子でした。

妊娠経過は順調で、12月には二人のクリスマスプレゼントとして3Dの撮影もして、
一足早くお腹のなかで笑っている息子に会うことができました。

10ヶ月、38週1日にうけたNSTで心音がひろえず、即入院でした。
翌日の夜になるだろうと言われていたのに、親孝行のいい子で陣痛がうまく進んで
自然分娩の形でお昼に出産となりました。

3月19日 午後12時31分
2730グラム 48,2cm
夫そっくりのつむじをつけた、うねうねのクセのある髪の毛、すらりと長い足、
白い肌、目はつむっているところはかろうじて私に似ているかな?という
夫のコピーのようなかわいい男の子

息子を空に見送る日は、虹がかかりました。
斎場に向かう車のラジオでは、贈る言葉が流れていました。
最後に会った息子には、夫が息子のために一人で買いに行ってくれた青い靴の柄の靴下、
着せたら一番似合うだろうなと思うベビー服をかけ、大きく名前を書きました。

息子は私たちに、知らなかった「親になる喜び」を命をかけて教えてくれました。
そして、夫の存在の有難さに気づかせてくれました。
人生で一番辛い瞬間のあの日から、今の私がいるのは夫がそばにいてくれたから。
息子と、夫には感謝の気持ちでいっぱいです。
お誕生日おめでとう。これからもよろしくね。

産声は聞けなかったけど、妊娠できて良かったと心から思います。
親になる。を叶えます。

2010.07.10 投稿者:成ちゃんママ

去年2人目を妊娠9ヶ月34週と5日で私のお腹の中で急に亡くなりました。
ある日いつものように1歳の息子と一緒に昼寝をしていてそのときにお腹で動いていたのが最後でそこから急に動かなくなり、旦那が帰ってきてから病院で見てもらうと原因がわからないが心臓が止まってると聞かされ、頭が真っ白になり、そこからは、ずっと泣いて泣いて現実を受け入れられませんでした。
それから即入院して2日後に自然分娩で娘を産みました。8月27日2020g見た目は、周りの新生児と変わりなく生きているか亡くなっているかの違いだけでその晩は、たくさんの身内が来て娘を抱いてくれました。娘は、私のお腹の中でなくなったけどお別れにたくさんの人に抱っこされて、見送られたのは、幸せだったのかもしれません。
お産した二日後にお骨上げして予定日が過ぎた頃にお寺にあずけました。
水子供養という扱いで名前も籍も残らないのがすごく残念でいます。
もうすぐ一年になりますが、去年私の姉や義理の姉やお友達が子供を産んでいます。
正直当時は、赤ちゃんの顔を見ることも会うことも辛く、この辛いという気持ちをわかってもらえずやっと一年たった今、精神的に落ち着いた気がします。
でも死産を経験しましたが、私の息子が一番私の心の支えになってくれました。
名前も籍も残らないですが、私の旦那、私、息子の心の中で生き続けています。
顔も見れてぎゅっと最後にずっと抱いてあげれて本当に辛かったけどよかったと思っています。
生まれて来れなかったけど娘にありがとうそしてパパもママもおにいちゃんも心から愛してると言ってあげたいです。

2010.07.06 投稿者:みっく

大きい病院に搬送され、検査。即入院となりました。
説明されたのは、膜を押し戻して子宮口を縛って、妊娠を継続させる手術もあるんだけど、膜が外に飛び出してきてることで、そこから菌に触れ、感染していると、その手術はできないそう。
ずっと点滴打って寝たきりで、おしっこも管を通して治療に専念しました。毎日泣きながら、点滴の副作用で苦しくて眠れなくても、なんとかなる!大丈夫!そう自分とお腹の中の息子に言い聞かせ…

…でも検査の結果、症状が改善されず…
赤ちゃんのいる膜が感染してる確率が高いそう。
その膜は脆いから、感染することで破けやすくなるとのこと…

子宮口を縛る手術はできないと言われました。 妊娠の継続は厳しいって…。
点滴の治療を続けていけば、投与量も増えていき、負担は大きくなる…
その治療を続けることで必ずしも良くなるとは言えない
もし、あと2週間くらい持ちこたえて超未熟児で生まれたとしても、生存率は50%。
うまく生きれても、後遺症、障害が残る確率は50~70%。
今はまだ赤ちゃんの肺機能ができてない時期だから自発呼吸もできるかどうか…
助かるなら助けたい。
私が寝てて済むなら、いくらでも。私が苦しいくらい、赤ちゃんを救えるならばなんてことはない。

どん底でした…
たくさん泣いて、 それでも涙は枯れなくて。

たくさん悩んで、考えて、話して…
それでも答えは出なくて…。

それでもたくさんたくさん泣いて悩んで考えて話して…時間足りないけど、夫婦で出した答えは、妊娠の継続をストップさせることでした。

6ヶ月、ママのお腹にいたのよ…?
それをたった一日で…。
でももしかしたら、苦しくて動いてたのかもしれない。私に動いて教えてくれてたのかもしれない。そう思うと、長くは時間かけれない…

先生に決断した答えを伝えるのに、泣いて声が出なくなる。
でも母親として、しっかり答えを伝えたくて、叫ぶような絞りだすような…声にならない声で伝えました。

すると夜には点滴は外れました。
部屋には旦那さんと母と義母がいて…
母は、いつもポヤポヤしてるあんたが、よく言えたねって泣きながら頭を撫でてくれて…。

翌日、自然分娩の形でお産しました。だいたいこのくらいの赤ちゃんは、産道を通ってくるうちに亡くなってしまうんだとか…。

旦那さんはずっと立ち会ってくれてました。
10月22日 体重500グラム。
身長28センチ。
21週6日。
男の子でした。

全部生まれても赤ちゃんは泣かない。 赤ちゃんはすぐに助産師さんに抱きかかえられてどこかへ連れて行かれ…
その後、無事胎盤も出てきて終わり、綺麗にしてもらい病室に戻りました。部屋に戻ると母と妹と、義母が待っててくれて…顔見たら泣いちゃうからうつむいて。。
少ししたら、赤ちゃんも綺麗にされて、病室に連れて来てもらえました。

姿を見た瞬間、こらえてた涙が一気に溢れ…
泣かない動かない私の赤ちゃん…
頑張って出てきてくれた…

小さな小さな私の赤ちゃん。
指も爪もまゆげも全部綺麗にあって、眠るような姿でした。
愛おしいと思いました。
かわいくてかわいくて…その姿を目に焼き付けました。

次の日、検査をして、大丈夫そうなので退院ということに。
赤ちゃんは霊安室にいるから、早めに連れて帰りたいのもあったので、退院も早めました。
そして退院の日の朝。
赤ちゃんを棺に入れ、大切に抱えて帰りました。
車に揺られ、しばしパパとママと家路までドライブ。
涙が止まりませんでした。 一緒に散歩した道、風景…悲しくて悲しくて…。

帰宅した後は、寝室をクーラーで冷やし、赤ちゃんにダメージが少ないようにしてパパとママのベッドに寝かせ、午後には火葬するからそれまでの間、久しぶりの家を見せてあげました。
棺の中をお花でいっぱいにして、着るはずだった肌着を着せて、ママが作ったスタイも入れて…

やがて、火葬の時間が近づいてきて、喪服に着替えて赤ちゃんを棺のまま火葬場に。
駐車場に着いたけど やっぱり渡したくない。

涙がまたまた…

それでも自分に言い聞かせ、赤ちゃんを火葬に…

最後の時、泣き叫びました。
倒れそうになる私を旦那さんや母、妹が支えてくれ、終わるまで待ちました。
30分くらいして…
『終わりました』

湯呑みくらいの小さな骨壷に入って、おうちに戻ってきました。
名前は暖人(はると)です。

たくさんのことを教えてくれた息子。前よりももっとパパのことを好きになったし、改めて命の大切さに気付かされました。自分がここにいることの神秘さ、感謝の気持ちでいっぱいです。
こころから、ありがとうとごめんねを…。

2010.07.03 投稿者:あにゅ

不妊治療2年でやっと授かった赤ちゃん、
40歳を超えた高齢出産で不安はありました。

切迫早産で2カ月入院、その中我が子が18トリソミーと診断され、後もう少しで8ヶ月になる頃突然の破水。
陣痛に耐え切れなかった息子は私のお腹の中で天使になってしまいました。

2010年1月 685gの小さな可愛い男の子。
産声は聞こえないけれど、産む事ができました。

産院のスタッフの皆さんは息子を他の赤ちゃんと同じように接してくれて、とても嬉しかったです。

御見舞いに来てくれた友人から最高に嬉しい言葉を言ってもらえました。

「お母さん、○○くん頑張ったね。おめでとう。」

誰からも言ってもらえなかった言葉「おめでとう」
きっと息子も喜んでいただろう。

沢山の奇形や疾患があっても、お腹の中で生きていた息子はとってもガンバリ屋さんだったと思います。

私は息子を誇りに思う、私をお母さんに選んでくれてありがとう。
私達に色んな事を教えてくれたあなたは、自慢の息子です!

2010.06.30 投稿者:ゆうママ

今月の26日で息子が天国に逝ってから1年になります。19週でした。
結婚して8年、不妊治療(人工受精)で授かった子でした。
切迫流産で1ヶ月の入院、でも無事に乗り越え退院。
つわりと鼻炎があって辛いなって思ったけどお腹にいることがすごく幸せでした。
陣痛は痛かったけど出血もなく具合が悪くなることもなく、ママの体に負担をかけない
パパ似の優しい息子。
そんな息子の兄弟を今待っています。きっと来てくれると信じて。

パパがすごく優しくなって、ママもパパのこと前よりももっともっと好きになりました。
家族の絆を深めてくれた息子に心から感謝します。

2010.06.11 投稿者:ぴーすけ

2009年秋、予定日より一ヶ月早く女の子を死産しました。
38歳、人工授精で授かった初めての命でした。
生まれる12日前の検診では元気に動いていたのに。
胎動を感じられなくなって診てもらったら、もう赤ちゃんの心臓は
動いていませんでした。『どうして・・・?夫に何て知らせよう・・・びっくりさせないように・・・』
震える手で何度も何度も書き直して、結局辛く悲しいメールを送るしかありませんでした。
夫が家族への連絡、死産の届け出、棺と火葬場の手配など、
悲しむ間もなくやってくれていました。
私はベットに寝ていて何もできず、夫が一番辛かったろうと思います。
『夫がこんなに頑張っているのに・・・、私も頑張ってこの子を生んであげよう。』
そう思いました。とても可愛い赤ちゃんでした。産声はなくてもとても幸せでした。
幸せはつかの間でした。生まれて数日でわが子を棺に納めるのは、とても辛いものでした。
『みんな元気な子供を生んでいるのに、私はそれもできない駄目な人間だ。』
と自分を責めることもありました。
現在は、二人目の子を授かりますよう治療を続けています。
きっとこの子に妹弟ができますように。

  

2010.06.11 投稿者:さっちゃん

6月25日、もうすぐ、お空に帰した赤ちゃんの、命日が来ます

13週目で、繋留流産でした

主人に、電話で、そのことを告げる時に。。口に出せば、この現実を受け止めることになる

涙で、「赤ちゃんがね・・・」の先の言葉が、言えませんでした

動かない、赤ちゃんをエコー画面で見ながら、明日には、動くのでは?

と、、、バカなことを先生に聞いたのですが

頭は、混乱していました  そんな、訳が無い・・と

さよならする、手術の当日は、大雨で・・・

梅雨時期の、雨音を聞くと・・・ お別れの日を思い出します

日に日に、つわりも去り、、、もう、自分のカラダから居なくなったことを
自覚させられる

もう、5年・・生れていたら、5才

いない子の、年を数えてしまいます

主人がつけた、名前は『幸』です、私たち夫婦はとても
幸せでした

お空でどうしているか・・『幸』に、会いたいです

2010.06.07 投稿者:nonko*

2008年に38歳で結婚し、2009年10月に妊娠9週目で流産。

「今度こそ必ず元気な赤ちゃんを産むんだ」

と仕事を辞め、今年3月に再び赤ちゃんを授かりました。
妊娠5ヶ月を過ぎ、お腹もぽっこりとしてきて、ようやく流産の不安から解放されたと思った時に。

赤ちゃんの心臓が止まっている

と、先生に言われました。
その5日後に32グラム、10センチの息子を出産しました。
9日前のことです。

毎日毎日お腹に語りかけ、神様に祈ってきたのに。

どうして、こんなに悲しいことになってしまったのだろう。

でも、もしかしたら。

息子は命がけで、私に何かを教えてくれたんじゃないかと思いました。

ちゃんとママになれること。
ママになる喜びを。

その証拠に、生まれた小さな小さな息子を見た時、可愛くて仕方なかった。
愛しさで胸がいっぱいになったのです。
こんなに悲しくても「あきらめたくない。赤ちゃんを抱きたい」と思わせてくれました。

そんな可愛くて優しくて頑張りやさんの息子のためにも。
今度こそ、絶対にこの手に赤ちゃんを抱く。

空にいる二人の天使のためにも、絶対にあきらめません。

2010.06.04 投稿者:あかり

2008年に38歳で結婚し、2009年10月に妊娠9週目で流産。
「今度こそ必ず元気な赤ちゃんを産むんだ」と仕事を辞め、今年3月に再び赤ちゃんを授かりました。
妊娠5ヶ月を過ぎ、お腹もぽっこりとしてきて、ようやく流産の不安から解放されたと思った時に。
赤ちゃんの心臓が止まっていると、先生に言われました。
その5日後に32グラム、10センチの息子を出産しました。
9日前のことです。
毎日毎日お腹に語りかけ、神様に祈ってきたのに。
どうして、こんなに悲しいことになってしまったのだろう。
でも、もしかしたら。
息子は命がけで、私に何かを教えてくれたんじゃないかと思いました。
ちゃんとママになれること。
ママになる喜びを。
その証拠に、生まれた小さな小さな息子を見た時、可愛くて仕方なかった。
愛しさで胸がいっぱいになったのです。
こんなに悲しくても「あきらめたくない。赤ちゃんを抱きたい」と思わせてくれました。
そんな可愛くて優しくて頑張りやさんの息子のためにも。
今度こそ、絶対にこの手に赤ちゃんを抱く。
空にいる二人の天使のためにも、絶対にあきらめません。

2010.06.04 投稿者:あかり

2010年4月20日。
初めて妊娠したわが子を18トリソミーという染色体異常で失いました。
私のお腹の中で、151日という短い間でしたが精一杯生きてくれた愛しいわが子。成長も遅く264g、21センチと小さい小さい身体でも、本当に強く、やさしい子だったと思います。
対面したときは涙ばかりでしたが、しっかりと胸に抱いてあげることができました。パパに似たすごくかわいい男の子でした。妊娠3ヶ月になるころから、頸部浮腫が確認されており、最悪の事態も覚悟はしていたものの、ショックは想像をはるかに超えていました。
涙が止まらない毎日で、夢も希望も何もかもが消えてなくなってしまいました。
生きて、生まれてくることができなかったわが子は、戸籍上は存在しないことになってしまいます。でも私達夫婦の間ではいつまでも消えることのない愛しい記憶、大切な第1子となります。これから先、いつまでも一緒です。
とてもいい主治医とめぐりあい、今は心の傷をケアしながら1歩前に踏み出しました。
次の妊娠は、この子と一緒に頑張るんだ!と胸に誓い、少しでも上を向いてこの子の分も生きていこうと思っています。

2010.05.31 投稿者:蒼ちゃんママ

2007年1月5日、染色体異常の18トリソミーの娘が誕生しました。
8ヶ月と27日の命をもって、その年の10月2日にお空にかえっていきました。

言葉にならない衝撃と挫折を感じ、自分自身生きていくことが精一杯でした。
私は、そのとき10歳になる1人の息子がいました。

当時10歳だった息子は、長年欲してきた兄弟の誕生を大喜びしたのに、
わずか、9ヶ月弱で、10歳の子は、妹の亡骸をかかえて泣いていました。

私だけの悲しみじゃなかったけど、親として、1人生きていく子供の命と、1人失った子供の命。
なにか、大きな責任を感じ、どうしようもない気持ちでした。
自分の人生で、反省することや間違った行動を探してそれを理由にして、
すべては己のバツとしていました。

そのほかにも私は4回流産しています。

流産を繰り返してやっと、授かった子供たち。
生きているのに妹の死に泣いている子、生きれなかった子。

そして今、42歳で妊娠9ヶ月目を迎えています。
色々な思いで最後の1ヶ月を過ごしています。
同時に姉は48歳で末期のガンで子供がいながら闘病生活をしています。
父も末期がんで余命宣告を受けてます。

死を経験してみて、これは特別なことじゃないと思えるようになりました。
いつだって死はついてまわる。
平和な日常しか知らなかった時のことをおろかに感じています。

2010.05.22 投稿者:しほこママ

2003年8月,初めての赤ちゃんを死産しました。

 不妊治療をはじめて3年目初めての人工授精で,やっと授かった子どもでした。
39歳という高齢妊娠でした。小学校教師という職業柄,疲れ切った毎日を送らざるをえなかったり,胎教に悪いと思いつつも子どもを叱らなければならなかったり,おまけに母も叔母もひどい妊娠中毒症で入院した経験があり,しかも叔母はそのために死産しているという不安もありました。それでも,検診に行くたびに大きくなるお腹の赤ちゃんがうれしくてうれしくてたまりませんでした。
 でも,5ヶ月に入ってすぐ,疲れすぎて入院,病休ということで仕事をお休みしました。幸い,お腹の赤ちゃんは元気よく育っていました。
 病院の先生から「もうすぐ生まれますね」と言われた次の日の夜,お腹が痛くなって病院へ行きました。でも,看護師さんが心音を探したら,確認されないのです。実はその朝に1回胎動があってから,赤ちゃんは動かなかった。出産間近になると胎動が少なくなると聞いていたので,不安ではあったけどあまり心配していませんでした。
 でも,赤ちゃんの心臓は止まっていました。「どうして?」という気持ちでいっぱいになりました。昨日まで心臓動いていたのに。なんでこんなことになるのか。赤ちゃんは死んでしまったけど産んであげなくてはいけない。パパにとっての初仕事は赤ちゃんの棺桶を買いに行くことでした。
 産んで後,解剖して死因を調べてもらいましたが,はっきりしたことは分かりませんでした。「後から思い返したら,最後の検診の時赤ちゃんが苦しそうな顔をしていたように見えた」「胎動がなくて不安になったときにすぐ,病院に行けばよかった」「もしかしたら障害を持っていた子だったかもしれないのに,心も体も元気に生まれてきてねって望んだから,神様に取りあげられたんだろうか」等と,後悔の念ばかりでした。
 お腹にいた赤ちゃんと3人で家を出たのに,帰ってきたのは2人だけ・・・。生きて生まれてこなかったら,赤ちゃんがいたことは戸籍には残されない。わたしたち親が覚えていてあげないと,なかったことになる。お腹の中では,ちゃんと生きていたのに・・・。
 しばらくは,赤ちゃんの写真を見ることも妊婦さんを見ることもできませんでした。わが子を亡くしたのに人の子どもを教えることなんてできませんでした。立ち直ることができたのは,同じつらい思いをした夫の存在と,ネットで知り合った死産した経験を持つ人たちとの交流でした。
 「命を大切に」と子どもには教えていたけど,どんなに大切かなんてわたし自身が実感していなかった。「生きて生まれてくる」それだけで,どんなに尊いことなのか分かっていなかった。生きてこの手に抱くことができなかった,声を聞くこともできなかった子でさえも,こんなにも愛しいものなのだ。
 その後,子宮筋腫の手術,体外受精での妊娠,超初期流産を経験し,なんと自然妊娠で男の子を授かりました。現在4歳になります。

 職場に復帰して以後,わたしは,毎年,子どもたちに「いのち」についてのメッセージを伝えています。お空の天使ちゃんが教えてくれたことを話しています。
 

2010.05.15 投稿者:みりん星

助産院で働く助産師です。
池川先生のファンで講演会にもよく参加してます。
私も3度の流産経験者です。
1人元気に生まれてきてくれた息子がいます。
1度目は病院で手術、2・3度目は自宅で産みました。
「どうして自分ばかり…」という気持ちが強かったのですが、
時間がたって
「私は4人のお母さんなんだ。お空に帰ってしまったけど、子供たちは私のおなかを選んできてくれた!それでいいじゃないか。」と思えるようになってきました。
4歳の息子が「お母さんが頑張って生きていくためにやってきた。」という言葉をくれたので
それを支えに頑張って生きていくつもりです。
5人目の赤ちゃんが来てくれるのを家族3人で待っています。

胎内記憶・自宅出産・助産師の目から見た出産など話したいことあるのですが
今ふっとお空の赤ちゃんたちが頭に浮かんだので、この項目に記入してしまいました。

2010.04.28 投稿者:shiho

 私は周産期以外の場所で働く看護師ですが、第一子を出産後に「誕生死」という言葉を知り関心を持ちました。
職場の助産師達が企画した「誕生死」の学習会に参加し、母親や家族の悲しみとその悲しみへの向き合いに寄り添うケアについて知りました。

 その後二度目の妊娠。
約2か月の間だけ私の中にあった命でした。

命は確かに私の中に誕生し、そしてお空に帰って行ったと受け止めること、我慢せずにしっかりと悲しむこと等、対処の仕方も知っていました。

しかし、知っていることと体験することは違っていました。

いくら上手にケアしてもこんなにも悲しいなんて。
流産と診断され予定手術となった前夜、横で眠る2歳の我が子のように抱きしめて子守唄を歌ってあげられないと思った時、悲しさが込み上げてきました。

 手術後、体験記を必死で探して読みました。
どの体験記も私より辛い状況でした。
私は最初から心拍が確認できず妊娠初期から心構えがありました。
職場の顔見知りの医療スタッフによるケアのため優遇されてもいました。

それでもこんなに悲しい。よくある早期の流産でも悲しみが軽いなんてことはないのです。
 流産したと告げると知人の中に体験者がたくさんいることを知り驚きました。

それだけ、語られることなく多くの方が深い悲しみのまま抱え込んでいるということも知りました。

 娘は5歳になり昨年弟の出生に立会いました。
抱っこやおむつ替え等とても良く面倒をみています。
そんな今でも直接会うことはなかった妹の名前を時々話すことがあります。

どちらの存在も家族として受け入れ愛おしく思ってくれている娘に感謝するとともに癒されていると感じます。

2010.04.18 投稿者:たまママ

2006年10月、10週目の時に掻爬手術を受け、お腹の赤ちゃんは天使になりました。
念願のわが子ができた喜びから一瞬にして絶望に変わった時でした。

7週目の検診では心拍の確認ができたのに、次の検診でまさかの「心拍停止」。
目の前が真っ暗になりました。
事実を受け入れ難く、他の病院にも受診しましたが、結果は同じ。
2日後に手術を受けました。
その後も心の整理がつかず、毎日泣いて過ごしました。
街行く妊婦さんの姿を直視することができず、今頃私もお腹が大きくなっていたはずなのに、今頃私も赤ちゃんを抱いていたはずなのに・・・、と暗闇の中に突き落とされたままでいました。

赤ちゃんを身籠れば普通に生まれてくるものだと思っているところがありました。
でも実はこの世に誕生するってことはすごいことだってこと、奇跡だってことを、この子を通じて気づくことができたのです。
一つの生命を誕生させることの素晴らしさを改めて感じました。

それからもなかなか子どもに恵まれませんでしたが、昨年ようやく出産することができました。
映画『うまれる』の上映を楽しみにしています。

2010.04.17 投稿者:takara-mama

2010年元旦。私たち夫婦は入籍いたしました。
まだ早いとは思いつつも私の母が病を患っていることもあり、すぐにでも孫の顔を見せてあげたいと思っていたのもつかの間、2月に早速陽性反応がありました。
何もかも初めてで不安はあったけど何より嬉しかった。
旦那さんも凄く喜んでくれて、お腹をたくさんなでてくれました。
しかし病院へ行ってもエコーには影一つ映らず、翌週再検査をすることに。
そして一週間後・・・。

ドクターから伝えられた「早期流産の可能性が高い」という言葉に動揺を隠しきれませんでした。
アルコールもたばこも摂取していないのに。激しい運動もしてないのに。
食生活が原因?テレビやパソコンの電磁波が原因?なに?なぜ?・・・
考えても仕方のないことだけど、そんなことばかりが何度も頭の中をループしていました。
出血はもちろん、流れてしまった実感が私に何も無かったのです。
今は、処方された生理を起こすための薬を飲んでいます。

両家の両親に報告するのが何よりつらかった。

でも諦めません。
赤ちゃんは、私がきちんとママになる準備が出来るように待ったをかけてくれたんだ!
そう思っています。必ずまた私のお腹に戻ってきてくれるはず!!
それまでにたくさんの知識を身につけ、万全な状態で妊娠出来るように頑張っていこうと思います。

2010.03.31 投稿者:かわ☆ちゃん

2004年10月出産予定日3日前に第一子を死産しました。

陣痛が来て、病院へと出かけるとき
「今度家に帰ってくるときは3人になっているんだ」と思った記憶が強くあります。
でも娘は小さな小さな骨壷に入って帰ってきました。

「なぜ自分だけ?」「私、何か悪いことした?」と色んなどす黒い感情に取り込まれそうになりました。

ひとからの些細な言動が引っかかって仕方ない時もありました。
家族や友達に支えられて闇の底から浮上できました。

今、2歳になる子供がいます。
子供ができて「自分が一番つらい」と思っていた当時の自分に教えてあげたいです。本当につらかったのは、ただ黙って見守るしかできなかった両親のはず、だよと。

お空にいるお姉ちゃんから教えてもらったこと。
命は自分だけのものではないこと。
生きていること、それ自体奇跡だということ。
自分の人生と自分の大切な人たちの人生を大切にするということ。
感謝を忘れないこと。

映画「うまれる」は老若男女みーんなに見てもらいたいです。

2010.03.21 投稿者:いずみママ

2008年2月、3カ月の時に稽留流産を経験しました。

不妊治療を約2年、人工授精での待望の妊娠でした。

先週には赤ちゃんの心臓がトクトクと動いている映像を目にし、今週はどの位育っているのか
楽しみに病院に向かいましたが、先生の「うーん・・・・・・動いていないね」の言葉に、しばらく
何が起きたのかわからなく、頭は真っ白に。
車の中で待っていた旦那さんの顔を見た瞬間涙はあふれ、号泣しました。

その夜、お風呂に入ってしんと静まっているお腹をなでながら、「私達夫婦のところにきてくれて
ありがとう、また来てね。愛しているよ。」そう伝えて目をつむると、おかっぱ頭の女の子が
今は亡き祖母と一緒に手をつないでいて、祖母が心配ないよと言うかのようににっこり笑って
すーっと光に帰っていった風景が見えました。

2日後、流産手術を行ない赤ちゃんは天使になりました。

何をしていても涙があふれ、とても妊婦さんや赤ちゃんを見ることも、おめでとうと心から言う事も
できず、おめでとうを言えない自分を責めて心が荒れた時期もありました。
でもありがたい事に、旦那さんはもちろん、親や会社の方やいろいろな方の支えがあって、
また前を向く事ができました。

驚く事に、実は身のまわりに流産や死産を経験した方が意外に多かったという事実。

とても明るく竹を割ったような性格で、いつも部署の盛り上げ役の方が、『実は私も1人流産、
1人死産を経験しているのよ』と、涙を溜めながらこっそり私に話をしてくれました。
『空を眺めては涙、家事をしながら涙していたけど、あの子達の分まで楽しく幸せに過ごすんだって、
頑張ってきたのよ。』

私もこの人のように強く優しく生きたい、そう強く思いました。あれから2年、まだこの腕に赤ちゃんを
抱けていませんが、いつか赤ちゃんを授かる事を信じて不妊治療を続けています。

【映画うまれる】が元気に生まれる事を、心から楽しみにしています。

2010.03.11 投稿者:華音のおかあちゃん