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流産・死産の体験談 の全体験談

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先日、流産を経験しました。

9月に愛知県刈谷市での上映会に主人と出かけることが出来、その後、妊娠がわかりました。

去年、妊娠がわかってすぐに流産していましたが、映画を観て癒されていたので、安心感で妊娠期間を過ごしていました。

つわりもなく、親孝行な子だとみんなから言われて、マタニティグッズも少しずつ揃えながら楽しみにしていたころ、12週に入ってすぐの検診で心臓が確認されないと言われました。

4日後にもう一度再検査しますので、それで誤診でなければ、手術をします。とお医者さんに言われました。次の日からの4日間、この子が助かるようにと、誤診だったと言われるようにと願いつつ祈り過ごしました。

主人と一緒に病院に行きました。やはり、心臓は確認されませんでした。一週間先延ばしも出来ますがどうしますか?と言われましたが、お医者さんにお任せしようと思っていたので、今日入院させてくださいとお願いしました。主人はビックリしていました。

主人と一緒に入院の支度をしにいったん家に帰り、姑に事情をはなし、入院しました。手術は翌日、陣痛を起こす薬を3回、3時間間隔をあけて入れて、午後にとり出す予定でした。それでも出てこない場合麻酔をかけて掻き出すということも考えて、翌日は朝食後から絶食になっていました。

朝9時、一回目の陣痛を起こす薬を入れて、部屋で待機。お昼前、二回目の薬を入れるために内診室に行くと、チュルンっと出てきてくれました。後の2回の薬は中止、もちろん、麻酔をかける必要もなく昼食もとって良いとのことでした。

薬の副作用で、嘔吐下痢があるかもしれないと言われていたのにそれもなく、それよりもなによりも、絹ごし豆腐のように柔らかいわが子が、形が崩れることなく、出てきてくれたことが本当に有難く、やっぱり親孝行な子だったんだ。感じることが出来ました。

病室に、真っ白な小さな箱に入ったわが子を連れてきてくれた助産師さん。お母さんも、この子も、偉かったねぇと褒めてくださいました。
目や耳、手の指や爪まではっきりわかりました。

手術後は、心身共に元気で、主人と笑ってテレビを観たり、話したりして病室でゆったりと過ごしました。


翌日は仕事だったため主人は夜遅く帰ったんですが、夜中、悲しくなって泣いてしまいました。

泣いたら一生懸命出てきてくれたわが子に悪いかなと思っていましたが、無理に悲しみから目をそらすとあとへ悲しみだけがずっと残るからとお医者さんにも言われ、病室のパソコンで「うまれる」のサイトを開き、「泣いていいよ」を何回も何回も繰り返し観て号泣しました。

隣室には、生まれたばかりの赤ちゃんがいて、「おめでとうございます!」とお見舞いの方が出入りしていましたが、お構いなく泣きました。

そしたら、私は悲しい思いをしたけれど、わが子にいろんな事を気づかせてもらえた。

また、「うまれる」の映画を観ていたからこそ、私は、不安を感じることなく妊娠期間を過ごすことが出来た。だから、つわりもなかったし、形そのままで出てきてくれた。感謝だなぁって。

今年3月に実父が亡くなりましたが、わが子を父に預けようと思いました。
昨日、その父が火葬された同じ火葬場で、火葬していただきました。また、いつの日か私達のところに帰ってきてね、と。

素晴らしい映画を作ってくださった豪田さん、本当にありがとうございます。
長文すみません。

2011.12.17 投稿者:ポンカン

初めての子を16週で人工死産しました。

映画「うまれる」は職場の仲間に誘われ、近所で行われる上映会に行く予定でした。
しかし、妊婦健診の予定があったため、そのチャンスは見送りました。

妊娠4ヶ月に入ったところで、「胎児水腫」と診断され、赤ちゃんの存命率の低さを説明されました。
死産か、妊娠継続か、選択しなければならない。

「なんで私が」

そんな思いを抱えて、妊婦さんや小さな赤ちゃんを抱いた家族をうらめしく思った日々でした。
セカンドオピニオンを求めて違う病院にかけこみましたが、結果は同じ診断。
週数を追うたびに、浮腫みがひどくなる一方で、エコーで手を振ってくれる赤ちゃん。

苦しい決断でしたが、夫婦で出した答えは、妊娠継続を諦めることでした。

陣痛を起こしての出産でした。
波のように来る陣痛は悲しいものでした。
早く出てきて欲しい、会いたくない、相反する思いの中、息子はするりとお尻から出てきてくれました。
産声はなく、私と夫が叫び泣きました。

初めて息子と対面した時、たくさんの浮腫みを抱えた息子を見て、

「ごめんね」としか言えなかった。受け入れられていない自分が情けないです。

出棺の前夜、家族がくれた池川先生の体内記憶の本を読むことが出来ました。

息子に「ごめんねではなく、ありがとう、と伝えたい」
そう思うことが出来ました。

「なんで私が」ではなく「私を選んできてくれた」

そう思うと、息子が来てくれた意味を考えられるようになりました。
いつか息子に、どこかで会える日がきたら、もう一度ありがとうと言えるように。
生きていきたいです。

2011.11.11 投稿者:こころ

私には4人の子どもと生まれなかった2人の子どもがいます。

3人産んだ後の4回目の妊娠に悩んで悩んで、
やっと産む決心をしたと思ったら、5か月に入るころに
その子の心臓(出産後肝臓も体の外にあったことが分かりました)が
体の中に納まっていないことが分かり、


その後1か月もしないうちに空に帰っていってしまいました。


そんな重い障がいを抱えていたためか、
生まれた時、もう5か月に入っていたのに
本当に小さな小さな赤ちゃんでした。

それなのに5か月もおなかの中で生きていた。


普段の忙しさにまぎれて、なかなか供養もしてあげられませんが、
よく頑張ったよね、と今でもふと呼びかけたくなることがあります。


その1年後、死産した子を妊娠した時と同じ時期に再び妊娠し、
経済的なこと、身体的なことを心配して
周りは皆産むことに反対しましたが

(ですが、その前の年に亡くなった父が、
母の夢の中に出てきて私の妊娠のことを告げていったらしいです
その時、私は母には何も伝えてはなかったので、
父はあの世から応援してくれたのかなと思ってます)、

私にはどうしても中絶することはできませんでした。


今ではその子も4歳になりました。


死産した子は男の子、生まれた4番目は女の子、
性別こそ違いますが、
きっと、戻ってきてくれたんだと
私は勝手に思っています。


もう一人は4人目の後ですが、
多分2か月くらいで自然流産してしまったみたいです。
産婦人科でそう告げられました。

そのとき、仕事も家も忙しくて
気づいてすらあげられなかったことを
今でも後悔しています。

2011.10.31 投稿者:のりきち

先日、初めての子供を臨月で亡くし死産を経験しました。

優しい主人と結婚し、子供を授かったことは私にとって幸せそのものでした。
国内外様々な所を旅行したり、スポーツジムに通うなど1年弱の充実した二人きりの生活を楽しんだ後に妊娠。

性別が分かる頃には主人の希望していた女の子だと分かり、名前を考えたり週末は二人でベビー用品を探しに行くのがとても楽しく、幸せの絶頂でした。


そんな妊娠8ヶ月の終わり、いつものように検診に行くと「赤ちゃんが小さいので念のため大きな病院に診てもらって下さい。」と紹介状を渡されました。

1週間後、国立病院で言われたことは『低体重、心臓に穴が開いている、弁の形が悪い、部屋もきれいに4つに分かれていない、肺動脈が見えない、小脳が小さい、胃が見えない』という素人の自分にも分かるくらい深刻な症状でした。

その夜は眠れないまま過ごし、次の日には「うちの病院では対応できないので子供専門の病院を紹介します。」と言われ慌ただしく救急車で搬送され、検査入院となりました。


転院した病院では18トリソミーの可能性がきわめて高く、胎内で亡くなることが多い。また仮に出産できても短命であると宣告されました。

そして今後の治療の方針を定めるために羊水検査を受けることに。

結果が出るまで2週間。毎日『どんな体でも良いから生きていて』『でももし生きられないならどうか苦しまずに天国に行けますように』と相反した願いを胎動を感じるお腹をなでて泣きながら祈りました。


2週間後、検査結果を聞きに病院を訪ねエコーを見た瞬間『あれ、心臓動いてる…?』とたんに自分の鼓動が早くなるのを感じました。

しばらく診ていた先生が「これが心臓なんだけど…」と言った瞬間に全てを察し、泣き崩れました。

「…一度心臓が止まったらもうだめなんですか?」混乱した頭で尋ねると「頭蓋骨の表面の皮膚の浮腫の具合から今日亡くなったということはないと思います。」と言われました。

2日前に急に胎動が少なくなったような気がして慌てて診てもらった時はまだ元気だったのに…。

呆然としたまま別室で羊水検査の結果18トリソミーだったことが判明したと告げられました。


後日、人工的に誘発しての出産。肉体は少し痛んでいましたが心から愛しいと思える可愛い娘でした。

それからの3日間そっとなでたり、ほっぺたにキスをしたり添い寝をして過ごしました。

出産から4日目の朝、主人の用意してくれた小さなピンク色の棺に寝かせ、私のウェディングドレスのパーツの一つをベール代わりにかけてあげて天国に旅立たせました。


はるちゃん、あなたはこの世に生は受けられなかったけど、戸籍にも載らないけど永遠に愛する私たちの長女です。

そして短い命と知りながら私にたくさんの事を教えるために勇気を持って生まれてきてくれたことに感謝します。

天国での休息に飽きて、いつかまた産まれても良いと思う時にはどうか私たちを選んで下さい。

まだ親になるという事も分からないような未熟な人間だけど精一杯愛し、幸せにする努力をするから。

そしてどうかまたあなたを抱きしめさせて下さい。

2011.10.19 投稿者:ななこ

私達夫婦には高校2年、中学2年、4才の3人娘がいます。3人とも知的障碍を持っています。

この子達を産むのには合わせて12回の流産、1回の死産を経験しました。

こんなに沢山の流産を経験した人はあまり聞いたことはありません。
「流産してもいつかは産むことはできる」との主治医の話で奮起し、その時はもうそんなに若くなかったため私には悩み、挫折している時間はありませんでした。

流産した子の中には映画と一緒の16トリソミーの子もいました。3女の前年、16週で死産をした子は男の子でした。

自分の子どもを火葬場に連れていき、16週だったので何も残らず、跡形もなくなった火葬台を見たときは哀しみが頂点になりました。
今でもその光景は忘れられません。

でも私も男の子を産める可能性があるんだと単純に嬉しかったでした。

どうしても(何がそうさせたのかはわかりませんが)女として子どもを産んで育てたかった・・それだけでした。

自分自身の染色体の異常から流産を繰り返すことは3度目の流産の時に初めて知りました。その当時「習慣性流産」と言われましたが今は「不育症」です。

「あなたに異常がある限り、まともな子供が産める訳がないから」と堕胎をしなさいと親兄弟からは毎回言われました。

でも、主人ととことん話をし、羊水検査もしない、同居していたのを引越しすることも決断してくれました。

自分で産むことが出来ないのならば、「里親」を考えようとしたこともあります。でも、子どもが産めれる可能性がある限り自分で産みたい、自分の体に挫折しながらでも産みたいと思うようになりました。

3人の娘は私の染色体異常から3人とも私と同じような染色体の異常を持って産まれてきました。
この子達は「奇跡」です。長女や私と同じ染色体の子も流産しています。

回数を重ねる度に流産した子に対しての感情が薄くなってしまっている自分に腹が立ったこともあります。どうして周りの人は1度や2度くらいの流産で出産できるのかと羨んだこともあります。手術の回数が増える度に麻酔が効かなくなっていることも恐怖でした。

死産した子意外、10週以上私のお腹に居なかったことも今となれば意味があったのだと思っています。

医学が発展しても人間の体はわからないことはいっぱいあります。

子どもを産むことはもう私は無理ですが、でも産みたいと思う人の気持ちを、経験を活かし寄り添って話すことをしていきたいと思っています。

2011.08.06 投稿者:かんてんまま

出産までの経過は・・・妊娠、5ヶ月のとき胎児に『浮腫』ありとの判断で
大学病院に転移しました。その後検診の時お腹がパンパンでカチカチだった為
緊急入院する事になりました。切迫早産、羊水過多症でした。

張り止めの点滴ウテメリンを始め入れていたのですが、肝臓数値が高くなり
激痛を伴いマグセントという点滴にかえたのですが、副作用で全身筋肉が低下し
ベット脇に、ポータブルトイレ、内診もベット、食事もまったく出来ず・・・
そんな入院生活でした。

羊水過多で、とても苦しく息も吸いずらくなっていきました。
羊水除去処置を3度ほどしました。お腹に針を刺し羊水を抜くのですが・・・
一度目は麻酔なしだったため、気がおかしくなるほど痛みを伴いました。
針が腹膜を越えるのでその間痛みは強烈です!今思えば出産より痛かった!

さすがに、二度目から麻酔してもらいました^^v
抜いてもまた羊水は増えるのでまた、抜くという繰り返しです。

食事も食べたら 吐いてました。水も少しでも飲むとお腹がチクチクして痛くなった。
お腹に入る物が容量がオーバーしてしまってたのです。
8ヶ月だというのに、お腹は臨月の妊婦さんなみ><

胎児は、関節が拘縮する病気だったため、動けず胎動もなく、毎日看護師さんに胎動ありますか?って聞かれるのですが、とても答えるのが辛かった。

肺や胃の発達も遅れていたので、羊水も飲めてない感じでした。

医者には18トリソミーの可能性があると言われてきました。
18トリソミは短命だそうです。染色体検査をすすめられました。

羊水除去すると同時に検査もしました。後日・・・結果は異常なしでした。
喜びました!生存率が上がるのかな?とその時は思いました。

MRIもしましたが、小児科の先生達に分娩後すぐお任せする事で精一杯です。
(後日、赤ちゃんの病名がついたのが、ペナーショッカー症候群と、関節拘縮症でした。)

そして、運命の日は近づいてきて・・・おしるし、破水の兆候が見られて来た
5日後位の事でした・・・陣痛室に移動しました。

羊水が多く子宮が延びているため微弱陣痛でした。
陣痛促進剤の点滴を入れましたが、あまり効果なく・・・数時間後点滴量を上げました。

隣のカーテン越しの妊婦さんは、陣痛で苦しみまくっていました!これが陣痛なのか・・・(汗)

私はというと・・・陣痛室に、移動したのにもかかわらず、会社の方のお見舞い、いとこの
お見舞いと、多少の生理痛的な痛みはあるものの・・・普通に会話していました。


そして・・・丸一日たち、お昼頃、先生に破水させましよう!と言われ・・
処置室で、人工破水させました。その瞬間!私のパンパンになっていたお腹から
ザッバーン!羊水がすべて抜け、大洪水!私は、看護師さんに『あぁ~楽になったぁ~』
と一言(^^;)先生はびしょびょw処置室も洪水w そしてすぐに力みたくなり

分娩室へ・・・やっと我が子に会える。不安と早く楽な身体になりたいのと 緊張で、
38時間の陣痛を乗り越えて無事出産!

今思うと、息子が小さく産まれて陰部の破裂も数ミリで・・・陣痛も痛み和らげてくれて
親思いの優しい子だったなぁ・・・。

産まれてきても声は泣かず・・・
すぐ小児科チーム総動員の隣の部屋に連れていかれ蘇生手術しましたが・・・

そして、48分後息子と初対面!息はしていませんでしたが、お母さん大好き!
ってお顔で伝わりました。とてもとても可愛いお顔でした。

今では、色々な人たちと出会い、夫との絆を深めてくれた息子に感謝とお別れの
涙でいっぱいです。半年間、ありがとう、と息子に伝えたいです。

2011.07.18 投稿者:みき猫☆

結婚後1年、なかなか授からずもしかしてと思い不妊治療をはじめ、いろいろな原因がわかり、手術も受けました。10か月後妊娠。
すごくうれしくて、うれしくて、2か月でしたが、心拍も確認できて、両親、祖母、友達みんなに知らせました。
そして8週で、出血、9週6日の検診で、稽留流産といわれ。
8週6日で成長は止まっていました。
超音波の写真にうつっているわが子は、とてもかわいかった。
検査の結果、私が原因でした。
育てれなくてごめんね。
苦しい思いをさせてごめんね。
1年少したちましたが今でもこれからもずとあの子は、心の中にいます。

2011.06.29 投稿者:mame

東北大震災があって、しばらくたった3月17日に…。
妊娠7ヶ月入ってまもなく、異変があって2日前からいつものいってるクリニックに通院をしてたのですが、この当日前期破水し陣痛が来てしまって、クリニックの受付前で倒れてしまいました。

そして、母子ともに危険な状態だったので赤十字病院に救急搬送されて手術開始から30分で帝王切開の切り口拡大の大手術で13時05分に赤ちゃんがうまれました。

産まれたときは手足も元気で心拍もあったのですが、容体が急変して17時17分に亡くなってしまいました。

手術が終わりほっとして、いきなりよびだされ、ベッド越しに保育器から出てきた我が子を見たときにわずかに動いている姿をみて、涙がでました。

ただ、わたしたち夫婦にお医者さんから『もう時間の問題です。一生懸命この世にでてきてくれたのでおとうさんおかあさん、手を握ったり、頭を撫でてあげてください。と、言われました.
わたしはなんのことかわからず、気がついたら『0』という心拍数…。
『ご臨中です』と告げられても、触るのもやめなかった私達夫婦は現実を受け入れられませんでした。


嵐のようにすぎていった1日でしたが、ようやくあたしもおちついて先日退院とその足でお葬式をすませてきました。


ちゃんとおなかから外にでてきてくれて、精一杯生きてくれてちょっとでも一緒にいれたので本当によかったです。
入院してから退院まで同じ部屋で赤ちゃんといました。
毎日こまめに遊びにきてくれて、ドライアイスをかえにきてくださった看護婦さん。
毎日朝から夜遅くまで絶え間なく病院にきてくれた大事な友達や会社の方、先輩.

こんなにつめたくなってる赤ちゃんを抱いてくれて感謝しています。
普通なら拒絶するはずなのに…。
いけなくても必ず連絡をくれて涙を流したと心配してくれた友達や先輩。
同時期に出産予定だった友達も精一杯私達の分まで産んでほしいです

産まれてきてくれて気づかされた大事なことがたくさんわかりました。

産まれてくることは奇跡。

命がけで産んだこと、おなかの傷も忘れません。


多くの友達や先輩が言ってくれた、『なんて声をかけていいかわからへん。けど、ほんまに力になるからなんでもゆってな』


正直言うのには勇気がいりました。いわんとこうかとも思った。
でもうまれてくるのを楽しみにしてくれるのもわかってたし、思い切っていいました。


一人一人のメールや言葉、手紙、何も言わず顔を見て涙を流してくれたこと忘れません。ほんまにありがとう!!!

そしてふらふらになりながらも、一生懸命毎日看病しにきてくれた、4人の親。

そして、どんなときでも自分も辛いのに1番近くでわたしと赤ちゃんを守ってくれた旦那ちゃん。

本当に感謝しています。ありがとう。

めったに泣かないのに、子供ができて悩んだときも、NICUでも、あかちゃんを見送る最後も離れず、大泣きしてたことも忘れません。


最初は赤ちゃんを2、3日たったら霊安室にいれる予定でした。

大概のお母さんは現実を受け入れられず、霊安室にすぐ預けます。大概のお母さんは他人の子供も見るのも嫌になるそうです。その気持ちもいたいほどよくわかります。

でも状態もよく、硬直もなかったし、私自身産まれてきてくれたから一緒にいれるときは一緒にいようと思い、看護婦さんと相談し退院までそばにいました。
赤ちゃんはかわいいっていうのもよくわかったし、こんな状況やけど病院で新生児みても自分の子が1番やとも思うし冷たくなってるけど、変わらずこの1週間遊んだり、看護婦さんの提案で母乳ぬってあげたり、話しかけたり、だっこしたりしました。
今では一緒に過ごせて、やれるだけやったので後悔はしてません。

まだまだ心の整理には時間がかかると思います。
人前で泣くのはいややと思ってましたが、今は無理をせず泣けるときに泣こう、辛いときは辛いとも思うようにしました。

佑ちゃんが産まれてきてくれて気づかされた大事なことがたくさんわかりました。

あんなに妊娠中不安だった子育てができるかどうかですが、今はまた大変でも子供がほしいと思うようになりました。


これから一生この事を忘れず、気づかされた大事なものも忘れないようにしたいです。
震災でもたくさんの方が大事なものも大事な人も失ってる人がいます。
でも前向きにひたむきに生きている姿は毎日TVをみて勇気と元気をもらいました。

辛さの形はそれぞれ違うけれど『上をむいて歩こう』と思いました。
いつまでも悲しんでいたら、あかちゃんも安心して天国にいけないとも思うし…。


落ち着いたら、また次にあかちゃんの分身をつくれるように前向きに考えてるので応援してください。

もうすぐ49日。まだこの世をさまよってると思うので毎日話しかけようと思います。

2011.04.29 投稿者:あっちゃん

2010年11月17日 27週で我が子を死産しました。
4月に結婚式をし、すぐの妊娠でした!

わくわくドキドキの妊娠生活。
6か月検診の時、小さいと言うことで大学病院へ。

色々調べられることはやっても、赤ちゃんは小さいだけで他に異常はない。
私の血栓の値が少し高いと分かり薬を飲み始めましたが、赤ちゃんは大きくならないまま
お空へ行ってしまいました。

陣痛を起こし分娩しましたが、両方の両親に見守られながら綺麗な形で出てきてくれました。

275グラムと本当に小さな赤ちゃんでしたが、本当にかわいい!
この瞬間を体験したら、親が子供を心配しすぎる意味がわかりました。

優しい子だったので、「優星」とつけました。

父は、この事は絶対意味がある!っと言ってくれました。

両方の父、母は本当に子供が好きで、早く孫を抱かせてあげたい!っと強く思いました。

主人にも。


分娩後、色々な検査を重ねていく中で、
私が「抗リン脂質抗体症候群」だということが判明。
元気で健康が取り柄なのに。

どうして・・・っと思うなか、胎内記憶や、
お腹に宿ってくれた赤ちゃんは、どんな結果であろうとお母さんを幸せにするために
やってくるっと言うことを知り、前向きになれていました。
優星がこの病気を教えてくれたと。

退院してからも薬を飲みながら経過をみています。


そんな中、今年の1月父が急死。
お正月もとっても元気だったのに・・・

1週間の入院中もこん睡状態でしたがそばにいてあげられました。

今思えば 優星は分かってたのかなっと思います。
お腹大きかったら、お父さんのそばにいてあげられなかったし・・・

今月結婚1周年をむかえられました。
1年間の間に大切なひとを2人も失い悲しかったですが、
今は経過を見ながら妊娠OKがもらえたら、がんばるつもりです!!

優星と父がやってきてくれることを祈って・・・

2011.04.13 投稿者:ぱなこ

妊娠9週目だったママです。

今日、定期検診で産婦人科に行ってきました。
検診結果は繋留流産とのことでした。
結婚4年目初めての妊娠。喜びの中の出来事です。

友達にこの本「うまれる」を去年貸してもらい、第2章まで
読んでいました。

こどもは私たちを選んで来てくれた。
一番落ち込んでいた時期での妊娠に本当にありがとう、
来てくれた時から、やさしい子だねって言ってました。

繋留流産・・・全く流産の症状はなく
毎日成長を心配していた親心をくみ取って
くれたのか、最後まで親を気遣ってくてたのだとそう思います。
最後までやさしい子でした。

この本を最後まで今日読みました。
励まされ、前を向かなくちゃとの思いももてました。
まだ気持ちの整理には時間はかかりますが、この子の分まで生きていきたいと思
います。
そして、またいつかパパとママになりたいと思います。
自分たちの命も、子どもの命も大切に今を生きたい。

うまれるに出会えてよかった。
ありがとうございます。

2011.02.13 投稿者:吉田 美希

結婚して5年目に授かった待望の長男を38週と4日で死産しました。

4日前の健診では何もなくずっと順調に大きくなっていたのに。

おしるし陣痛と本に書いてあった通りの経過で、いよいよ逢えるんだと期待に胸を膨らませ病院に着くと助産師さんが心音を確認出来ない様子、他の助産師さんに代わり先生も来て心臓が動いていないと知らされました。

私は何かあった時の為に市内では1つしかないNICUのある病院を探して出産に臨んだので、産まれてくれば助かるかもしれないと頑張りましたが、産声を聴くことは出来ませんでした。

少し小さめだったけど、本当に本当にかわいくて、いとおしくて、きっと生きて産まれていても同じ気持ちになったんだろうなと思いました。

出産が夏だったこともあり、ずっと一緒にいることはできませんでしたが、抱っこしている時には何故か涙は出ませんでした。

病院の対応も良く、普通に産まれた子と同じように○○ベビーと書かれた名札を付けて連れてきて下さいました。私たちは亡くなっている人と写真は撮ってはいけないような気がして、カメラもビデオも持ち帰っていたのですが、助産師さんが何度も写真を勧めて下さって、3人でならと退院の日に撮ってもらいました。

その写真が今でも私たちの心の支えになっています。

私の退院と同時に火葬をお願いしていたので、入院中はこの子のために出来ることをやろうと主人と二人で決め、棺に入れるお守りや折り紙を作ったり、子どもの手足型を残したり、着替えをさせてもらったり、子どもの為に何かをやることで前を向くきっかけになったのかもしれません。

あれから5年、周りの心無い一言に傷つき涙することも多々あります。

でも今また新たな命がお腹の中で育っています。きっと不安も無事に産まれるまでずっと付きまとうでしょう。

でもお空にいる息子が付いてくれてると思って頑張ります。

【うまれる】私はこの映画のことを今日初めて知りました。まだやっている劇場もあるので、主人と観に行こうと思います。

きっとつわりが治まった今見付けたのもお空にいる息子からのメッセージなのだと思います。

2011.01.19 投稿者:はるママ

2009年12月7日に、18トリソミーで長男を死産。
そして今年11月25日に、次男を子宮内胎児死亡のため、人工流産しました。


第一子になる長女を帝王切開で出産したとき、周囲の悪意の無い言葉で傷つき
いわゆるバース・トラウマを抱え、長男はVBACに挑戦するために
設備の整った母子専門の大きな病院で健診を受けていました。


何の問題も無いと言われ続けて、8ヶ月目の健診を3日後に控えた金曜の朝、出血があり受診。
羊水過多、切迫早産、即入院の指示。


入院担当医ともう一人の医師がふたりで超音波画像を見ながら 
小声で会話しているのを必死で聞き取りました。


食道断裂、胃が見つからない、手が…足が…


思えば 初期から不安を抱えた妊娠生活でした。
どんどん大きくなるお腹、夕方になると張って苦しい、
出血の数週前からは毎朝明け方にお腹の張りで目が覚めるほどでした。


健診時に 外来担当医に相談しても、特に何も言われず…
長女の妊娠生活がとても安定した楽なものだったこともあり、
妊娠とは、普通はきっとこういう辛さもあるものなんだ と思っていました。


一旦は即入院を指示されたのに、月曜に変更になって帰宅を許されたとき、
お腹の我が子が、おそらく保護しても助からない状態であることを悟りました。


29週と2日目でした。
世の中に、こんなにも辛く悲しいことがあるんだということを知りました。


失った長男をどうしても取り返したくて、望んで望んで妊娠。
安定期に入り、周囲に報告をした矢先、21週と2日目の健診で
「動いてない」と言われました。


転院し、21週と5日目に促進剤をつけての人工流産。
処置を始めてから、少なくとも4日程度はかかる もしくはそれ以上と言われてたのに
2日で会いにきてくれました。母親想いのとてもとても優しい次男。


なんでこんなことになったのだろう…
とてつもない虚しさから、まだ抜け出せずにいます。


赤ちゃんを心待ちにしていた3歳の長女は、時折思い出したようにしくしく泣き出します。
「赤ちゃん抱っこしたかった」「赤ちゃんみんなに見せたかった」「赤ちゃんと遊びたかった」


映画は、次男をお腹の中に抱いて、一人で観に行くつもりでいました。
長男が、もし今も生きていたなら、どんなだったんだろうと、今はない未来を見るために。


どうかもうしばらく 勝手ながら私の気持ちがほんの少し落ち着くまで
上映されてますように。

2010.12.05 投稿者:輝

私は、間もなく結婚丸6年になろうとしています。

なかなか授かれず、不妊専門医にかかりました。
治療を続けても、なかなか結果は得られず、高度治療にステップアップです。


通院にも時間がとられ、仕事とのスケジュールもやりくりが出来ず、休職して、不妊治療に専念しました。


毎回の会計は数万単位。月で言えば、数十万。
何とかやりくりは出来ていたものの、やはり、金銭的に辛かったです。


もちろん、肉体的、精神的にも。。。。

何度かの高度治療を経て、初めての妊娠反応。
でも、ホルモン値が悪く、脅かされっぱなしの妊娠生活。。。

普通なら、胎嚢も確認できないまま、流れ出てしまう程のホルモン値だったにもかかわらず、
しっかり大きくなっていく胎嚢。

期待と、不安の数週間、、、、だけど、その子は天使になりました。


その後も、治療法を見直し、高度治療に挑み、再度妊娠。
ホルモン値もよく、期待が膨らみましたが、
小さな胎嚢は、出血と共に流れ出てしまいました。

自宅で胎嚢を受け止め、手足がガクガク震えながら、泣きました。

「ホルモン欠乏状態が長く続いた為の、子宮発育不全が原因です。」
医師からの言葉に愕然としました。


私のせいで、産まれてこれたはずの赤ちゃんを死なせてしまったの???

その後、不育専門医を訪ね、詳しい検査をしてもらい、その他にも原因があり「不育症」と診断を受けました。

その頃、この映画の存在を知りました。
まだ、製作中で、公開を待ち望んでいました。
一番、関心のある「命」
公式サイトも、こまめにチェックしておりました。

不育症と診断され、治療法も提示され、不妊+不育の2人の医師にバックアップを受けながらの高度治療で、
2010年の秋に3度目の妊娠が確認できました。


ドキドキしながら、不妊治療の病院でホルモン補充を続けながら、不育専門医で不育治療を受け。。。。


先の2人の子の成長は越せたものの。。。。心拍が止まってしまい流産となりました。


流産処置を受けて、1週間後に映画を見に行きました。
まだ。公開されたばかりでしたし、いつまで上映しているのかも分からなかったので、
県外の劇場まで、夫婦で出向きました。


胎内記憶。。。。母となる不安。。。。死産した母の気持ち。。。。

あと、アニメーションと歌の、天使ちゃん達


うちの子たちは、何を伝えに我が家に来てくれたんだろう?
短い命だと分かっていても、着たかった家庭なんだよね。
お空で、こっちの事見てるのかな?


色々、考えさせられました。


その後、3度目の妊娠は、詳しい検査で、染色体異常が認められ、
お腹の中で終わってしまった命でしたが、与えられた命を全うしたと知りました。


今でも、我が家にやって来てくれた命のことを思うと、涙が出ます。

でも、お空で、私達の事見てくれてるんですよね 。
泣き虫な、ママだけど、またやって来てくれるかな?

パパと仲良く笑っていれば、来たくなるよね?
待っているからね

2010.12.04 投稿者:ポニー

今年の9月30日に死産しました。

あれから2ヶ月がたちだいぶ気持ちも落ち着きました。
でも、赤ちゃんの写真を見たり、出産日が近かった友達の赤ちゃんが無事にうまれたという話しを聞いたりすると、今でも涙が止まらなくなります。

みんな無事に出産しているのになんでわたしだけ???と思う時があります。

でも、赤ちゃんが自分の命が短いと知りながらも私を選んで私のお腹に宿ってくれたのだとしたら、私が悲しんだり、周りと比べて落ち込んだりしていたら赤ちゃんがお空の上で悲しむだろうなと考えるようになりました。

赤ちゃんのことは一生忘れられないと思いますが、少しずつ前を向いて笑顔で生きていきたいと思います。

2010.12.03 投稿者:ミーツ

今年の2月、2人目の子供(娘)を36週で常位胎盤早期剥離で死産しました。
その時のことは全く突然の事で、今でも早く病院に行けば助かったのでは?と自分を攻め続けています。

産まれた娘は綺麗な顔をして眠っているようでした。
私と旦那は火葬の日まで2日半抱き続け泣き、医院のスタッフの方々も皆で抱いて泣いてくださいました。

もの凄く楽しみにしていた娘だったので、本当は手放すの嫌で納骨もしたくなかったのですが、親の強い勧めで取り出せないお墓へと納骨しました。

それから今までの間、今でも妊婦さんを見ると辛く、目をそむけ、怒りさえ感じてしまいます。
「上にお子さんが居るから」「また次があるから」
など言われ、納得がいかずともそう自分に言い聞かせていました。

しかし一番悔しいのが、今看護学校の通信過程で学んでるのですが、娘の出産前も死産後もそこの教論に「お産は病気じゃないから」という言葉を何度も言われました。
私的には「病気じゃないから何なの!?」という思いで憤りを感じています。

お産は病気じゃない・・・
その言葉の意味するところは何なのでしょうか?
病気じゃないから甘ったれるな。
とでも言いたいのでしょうか?

確かに昔からよく聞く言葉ではあります。
でも病気じゃないからこそ、何がおこるか分からないから怖いんじゃないでしょうか?
病気であれば少なからず治療法や対処法があるけれど、突然起こる死産や流産は予測できないものであり、それを含めたお産は軽視しちゃいけないと思うんです。
少なからず看護を教える立場の先生からは聞きたくない言葉でした。

そういった沸々とした日々を送る中で、どうしても失った娘を取り戻したくて現在子作りをしています。
しかし、なかなか出来ずに月一のものがくると落ち込んでしまい、だんだん疲れてきました。
今は不妊症で悩む方の気持ちが少し分かったような気がします。

この映画が私の地域では来年1月に公開と本日知りました。
無事に元気に産まれてくるシーンは辛いと思いますが、何か自分の中に芽生えるものがあれば良いなと期待して公開を楽しみにし、必ず観に行きます。

楽しみにしています。

2010.11.30 投稿者:愛沙のママ

私は22週と24週と2度の死産を経験しました。

検診などでは、全く異常がなくどちらも突然の出来事でした。
1度目は自分の中で受け止めるのが精一杯でした。

2度目、まれに起こるこの出来事がなぜ私に2度起こるのか・・・
もう少し早く気づいていたら助けられたのではないか・・・

悲しみの中いろんなことを考えすぎて人にも会えない、電話にもでたくない
よそのあかちゃんをみれないという状況が続きました。

でも、思いっきり落ち込んでしまおうと思いました。

時間がかかりましたが、この"時間”と主人の支えが薬になりました。
他人の言葉にもずいぶん傷つき落ち込みました。
人は自分が経験したのではないからわからないのです。

これは自分で乗り越えるしかないと思いました。
そして他の子供さんをみても無事に産まれてこれてよかったねって心から思うようになったのです。


1度目はまれにおこることとして
あまり検査もされませんでした。

2度目ともなるとやっとここで病院側もさまざまな検査をしてくれるのです。
結局いくつかの原因がみつかり、治せるものは治していこうといったものでした。

私側の原因だったのでもう少し早くに検査をしていたら、二人目は助けられたかもしれません。

身体も落ち着いてきたころ、もう一度頑張ってみようと思いました。
すると次は"不妊”で治療が数年続きました。

何回か病院を変え、"不育症”に詳しい先生をみつけて通院を開始しました。
これでダメだったら、もうこどもはあきらめようとAIHをしてみました。

それでやっと授かったのです。

妊娠したら今度は前回の妊娠の週数を超えれるかどうかの不安な毎日でした。
大学病院を紹介してもらい、そこでとても良い先生にめぐり合いました。

22週直前までは毎週の受診、22週から出産まで管理入院です。
入院しても治療はなにもないのですが、毎日の心音を聞くだけでも私にとって
みたらとても意味のあるものでした。

そのときに先生がおっしゃったのが、私のおなかの子は”バリュアブルベイビー”
貴重児というそうです。そしてこの子を無事に出産できました。

産まれたときには本当に良かったねと声をかけてくださって、病院や先生との出会いも
2人のこどもたちがいたからこそかもしれません。

まだまだ書ききれないことがたくさんありますが、
この映画のことを知り、いろいろなことを思い出しました。
是非みにいきたいとおもいます。

2010.11.21 投稿者:bonhanabon

今年の7月、
陣痛が始まり病院に行くと
突然「心臓が動いていない。」
と言われました。
これまで何の問題もなく順調そのものだったはずが、なぜ・・・と
谷底に突き落とされた感じでした。

しかし、静かな出産であっても
腕に抱いたわが子はこの上なく愛しく、命の尊さが痛いほどに感じられました。
私達夫婦は最高の幸せと哀しみをいっぺんに味わいました。

夫婦で支えあい、家族に助けられ、
また空へ還ったわが子からも様々なメッセージをもらったことで
その出来事を愛情で包んで
受け入れられるようになりました。

その3ヵ月後の10月、
今度は私の父が亡くなりました。
私は5人兄弟。
5人の子どもを守り続け、愛し続けた父も
天へ召されたのです。
転移性肝臓がんでした。
父は
「死ぬのはこわくない。
 これでいいんだ。」
そう言って穏やかに逝きました。
病身にあって、
私達に精一杯の生き様と
死は終わりではないということを教えてくれました。


そして、今
私のお腹には新たな命が宿っています。
命のバトンが引き継がれています。


普通に生きてきたこれまででしたが、
今年は命について考えざるをえない
さまざまな出来事がありました。

生きることは素晴らしいこと。
それに気付きさえすれば・・・。
私達は、
連綿と続く命の帯をつないで
今、ここに生きている。
そう実感しています。

2010.11.14 投稿者:ひまわり

2008年12月。
妊婦健診で心臓が動いていないことがわかり
翌日、陣痛促進剤を使って娘を出産しました。


妊娠38週目の出来事です。


妊娠中、切迫流産や切迫早産と診断されたことはありましたが
娘の成長は順調そのものでした。
実際生まれた娘は、外見も綺麗で何の異常もありませんでした。
お腹の中での「突然死」とのことでした。


それから2年が経ち、私は再び妊娠。
現在妊娠9ヵ月半ばです。


これも何かのご縁なのか、出産予定日は娘の出産予定日の一日違い。
2年前の日々を取り戻すかのような毎日です。


不安がない訳ではありませんが、むしろ不安しかないですが
見守っていてくれているであろう娘とお腹の赤ちゃんを信じて
毎日を過ごしています。


地上には秋に5歳になった息子しかおりません。
ですから、一見すると一人っ子の優雅なママ。


心ない人は「一人っ子は可哀そうよ」だとか
「兄弟がいた方が子どもは伸びるよ」とか
よその家庭に土足で踏み込んできます。


そんなのほんっと余計なお世話です。


まぁ、いちいち言い返すのも面倒なので
曖昧な表情と適当な相槌でやり過ごしますが…。

私だって2人産んだんだ。
娘はお腹の中で一生を終えたけど、それでもなお「生まれた」んだ。
大声で言えたらどんなにいいだろう。


娘の他には、初期に流産した小さな天使が2人います。


お空の子ども3人と地上の息子1人。
それにお腹の子が一人。


全部で5人のおかんです。
みんなみんな愛おしい我が子です。

映画館は少し遠いけども、体調が許すならぜひ見に行きたいです。

2010.11.13 投稿者:5人のおかん

2010年9月下旬
予定日よりも4ヶ月早く
産声も聞けない、「おめでとう」の言葉もない
悲しい出産(誕生死)を経験しました。

愛しい赤ちゃんが生まれたこの日が、同時に命日に。

待望の赤ちゃんを授かり、どんどん大きくなるお腹に、
楽しい未来しか想像できなくて、
こんな日が来るとは思いもしませんでした。


妊娠18週と数日で、その生涯を終えてしまった赤ちゃん。
その間には、私や夫、おじいちゃまやおばあちゃま達に
たくさんの幸せを与えてくれました。


赤ちゃんがお腹にいるとわかってからの数ヶ月。
本当に本当に、幸せな日々でした。
きっと、今まで生きてきた中で一番幸せな時間だったと思います。

2010.11.09 投稿者:璃久ママ

おなかの赤ちゃんの成長を楽しみにしていた検診で、
おなかの赤ちゃんが死亡していると診断されました。

妊娠21週での娩出でした。

自分の体調に変化もなく、痛みや出血もなく、
約三週間、おなかの赤ちゃんの異変に気がついてあげることができませんでした。

かなり動揺したのですが、
「あぁ、やっぱり」と思ったんです。

検診に行く数日前に母乳のかわりに血がドバドバでる夢を見たり、
出血した夢を見たんです。

このころから、「この子は生まれてこないのかもしれない」という思いが漠然と心のすみにありました。


結婚4年目、不妊治療を経て授かった待望の、待望のわが子。


わが子は短すぎる命と知りながらなぜ私達のもとにやってきてくれたのか、
そしてなぜお空へ帰ってしまったのか。。

娩出してから一カ月、こたえを探す日々です。


妊娠中に「うまれる」の映画の公開を知り、
「おなかの赤ちゃんと一緒に見に行くんだ」、「私が妊娠中に公開されるなんて運命だなぁ」なんて思っていました。

そして、わが子がお空へ帰ってしまった今も気持ちは同じです。

私が毎日必死に探しているこたえのヒントをもらえるようなきがします。

明日の公開を心待ちにしています。

2010.11.05 投稿者:新米天使ママ

新聞でこの映画のことを知り、今日ホームページを拝見しました。

8月13日たいのうも確認できないまま、流産しました。医学的には科学的流産と言うそうですが…
3歳半の息子がいますが、二人目を心待ちにしていた所のできごとでした。

最初の診察で継続できるかわからないとの診断で、もういちど診察に行く前に出血しました。
私が何かしたのか、どうしてなのかとそんなことばかり考えていました。

主人は「私が悪いわけじゃない。」と言ってくれましたが、主人の両親は泣いてはダメだと…

自然の出血で厚くなった内膜を出したので、すごい痛み 息子の面倒も見れず、主人の両親に近いのでお願いしました。

息子に私の姿を見せたくなかった。

息子も心配してくれ、これで直るよと自分が体に塗るクリームを塗ってくれました。

何の効果もないのですが、その心にやさしさに涙しました。

預けた夜は初めてお泊りしてくれました。息子なりにがんばってくれました。

その後両親はとても心配してくれ、いろんな気配りをしてくれ、感謝しています。

生理も復活し、妊娠OKの許可でましたが、自然にまかせ、また家の子になりたいと思い我が家にやってくる天使を待ってみます。

やんちゃばかり甘えん坊の息子ですが、うちの子でよかったと将来思ってくれたら幸いです。

自分の命 大切な家族の命 考える時間をいただけてよかったです。

ありがとうございます。
映画必ず見に行きます。

2010.11.03 投稿者:弱虫母かな?

今年3月長女を出産しました。

そして2日後亡くなりました。


私は2年半程不妊治療を続け2度の手術をし、
4回目の体外受精にてやっとやっと妊娠しました。


母子共になんの異常もなく、幸せな時間が過ぎていきました。


しかし、39週3日、常位胎盤早期剥離が起こったのです。
前日から前駆陣痛が始まり、なぜか今まで正常だった血圧があがったため、
管理入院となった矢先でした。
激痛と急に下がったモニターの胎児心拍、


「先生呼んで!酸素持って来て!」


内診をした助産師の叫び声。ベッド共手術室に運ばれる私。
何がなんだかわからず


「赤ちゃんは?生きてるんですよね?生きてるんですよね!」


とガタガタ震えながら叫んだのを憶えています。
娘は20分の心停止の後蘇生、NICUのある大きな病院へ運ばれていきました。


私も次の日には外出許可が下り、寝台タクシーで娘に会いに行くことができました。
私が会いにいったときが、一番状態の良いときだったそうです。
目を開けて、一度だけ声を聞かせてくれました。医師は奇跡だと言っていました。


名前を呼ぶと私の方に目を動かしました、まだ殆ど見えないはずなのに、
一生懸命母の顔を見ようとしているようでした。

妊娠がわかった時から毎日話し掛けていたから、
声を憶えてくれていたんだなと思います。


次の日、医師から今後の選択について尋ねられました。
このままやれるだけの治療を続けるか、痛みの除去と呼吸管理のみで
自然な死をむかえるか。腎機能が回復せず、カリウムが溜まり不整脈が起こっている、
腸管が壊死して内容物が腹腔に漏れ始めている…つまり、


延命は難しい


とのことでした。

私は諦めたくなかった、

娘だって生きたい、

助けてって思ってるかもしれない。

しかし、たくさんの管につながれ、時折苦しそうな表情をする娘を見て、
もう楽にしてあげたいという夫の意見に従いました。


NICUのスタッフの厚意により、
帝王切開をしたばかりの私のためにベッドを入れてくれ、
娘と添い寝やカンガルーをさせてもらいました。

最期は親子3人、ゆっくり静かな時間を過ごしました。
お腹の中にいるときのことや、大きくなったらこうしたかったね、
あそこへ行きたかったねと泣きながら、時には冗談まじりに話をしました。


娘は2日という人生を精一杯生きてくれました。

感謝の言葉しかありません。

子供は使命を持って、親を選んで生まれてくると聞きます…
では


娘は私達に何を伝えに来てくれたのか?


ずっと考えていました。
そして、気がついたのです。
私は4回目の体外受精、これでダメなら諦めようと思っていたんです。
だから


娘は「あなたは妊娠できるのよ、諦めないで」って、

短い命の運命だったけど急いで伝えにきてくれたのかなと。


あの時入院しないで自宅に帰っていたら、私は死んでいたかもしれません。
きっと娘が助けてくれたんだと思います。
娘に救ってもらった命を無駄にしないよう、娘に恥じないよう、
前向きに生きて行こうと思っています。


出産後2ヶ月で仕事を始め、
お金を貯めながら、今また治療をしています。

またあの子や弟、妹が私達の元にきてくれますように…。

2010.11.03 投稿者:jellyumi

臨月で赤ちゃんはお空へ帰ってしまいました。
こちらでは書き表せないほどの悲しみ苦しみでいっぱいでした。

でも胎内記憶の事を知り、少し救われました。
赤ちゃんが選んで私達夫婦の元にやって来てくれた、
お腹の中でちゃんと感情を持っていて、私達の愛情もきっと伝わっていたと信じています。

赤ちゃんは、命の尊さ、人の痛み、周りへの感謝・・・たくさんの事を教えてくれました。

自分を責めたり死にたいと思った事もありましたが、
私達夫婦が幸せになることが我が子への恩返しだと思い、
今はゆっくり少しずつ前を向いて生きて行こうと思っています。


妊娠中は喜びいっぱいで、不妊治療をしている人の気持ちも考えずに
行動してしまっていたと思います。

今は街で赤ちゃんを見るのもつらく、自分が体験してみて、初めて人の気持ちを考えました。
今では、感情で子供を叱っていたり、子供の愚痴を言っている人達に対して


『赤ちゃんが授かって、無事生まれて、元気に育ってくれているだけでも奇跡なんだよ』


と言いたいです。

不妊、不育症や流産、死産経験者はもちろん、
現在子育て中の人達にもたくさんの人に見てもらい
命の尊さを感じてもらえるような映画になってほしいと期待しています。


また、少子化対策として子供手当が出来たのは良いことだと思いますが、
「お金があれば産む」とかそういうことではないと思います。

人間の命はもっと尊いものです。

『子供を望んでいるのに産めない』という人達にももっと注目してほしいです。
不妊症、不育症の治療費や、流産、死産経験者の心のケアなども
保障される社会になってほしいと思います。

2010.10.23 投稿者:Y.H

今日からちょうど1ヶ月前、妊娠4ヶ月で流産しました。

流産した子どもを上の2歳の娘に翌日あわせたところ、「あ、またくるよ~!」と第1声。

突然の流産でしたので、私本人が現実を受け入れられないままにいたのですが、この娘の言葉に救われました。

流産する4日前、偶然にも胎内記憶についてお話を聞く機会があり、今思うと運命だったのかと思います。後から振り返って納得できるよう、子どもたちが用意してくれた出来事だったのでしょうか。

私の退院後も娘に聞くと、「あっちからくるよ。」とお空を指差します。

娘の言葉を信じて、またお腹に命が宿ってくれる日を待とうと思います。

2010.10.23 投稿者:また来るよ

今から18年前の出来事です。

予定日1週間前、自分の誕生日の日に、2人目の子供の出産前検診に行きました。
もうすぐ生まれるだろう我が子にいつ頃会えそうかな?
2人目だし、早まりそうかな?
自分の誕生日と重なり、ウキウキ気分でした。

数時間待って、いよいよ自分の番。
でも・・・様子が何かおかしい。
超音波画像でも心臓が動いていない・・・・。

「残念ですが心臓が止まっています」

その後の事はよく覚えていません。
待合室に座っている妊婦さんたちが、とても幸せそうに見えた事だけ覚えています。

2日後、3000グラムを超えていた産声を上げない我が子を、自力で出産しました。
看護師さんも涙する、辛い辛いお産でした。

原因は、へその緒が首に4重に巻き付いていたとの事でした。

その後は何事もなかったように過ごしていましたが、心の底では自分を責め続けていました。
動かなくなっていた事に気づいてあげられなかった自分。
どうして気づいてあげられなかったのだろう・・・。

苦しかっただろう・・・辛かっただろう・・・。
子供を苦しめてしまった自分が、自分のために泣いちゃいけない。

悲しみという感情を麻痺させ、どこか現実感のない毎日を過ごすようになりました。
泣く事すらできなくなってしまったのです。

自分の誕生日が大嫌いになりました。

次の年には妹を授かりましたが、それも、自分の中から辛い記憶を消していたからこそ、
産んであげられたのだと思っています。
忘れようと必死でした。

それから10年ほどたち、まだ受け止められていなかった私に、
当時の痛みが突然蘇ってきた日がありました。
きっかけはやはり子供。長男でした。

どこか感情を封じ込め、自分を追い立てるように歯を食いしばって生きてた自分に、
長男がSOSを投げかけてきました。

私は、自分が悲しみから逃げるために、長男にひどく辛い思いをさせていた事に、
やっと気づけたのです。
長男もまた、泣かない私に育てられ、泣いちゃいけない、わがままを言っちゃいけないのだと、
自分を抑えつけていたのです。

それからやっと、悲しみと向き合い、自分のために泣き、亡くした子供や長男のために泣き・・・
10年間の・・・いや、もっと昔の、自分が幼い頃からの悲しみをすべて解放していきました。

空に帰った赤ちゃんは、私に「愛情」を教えてくれました。
私自身が両親がいない環境で育ち、親の愛を知りませんでした。
そんな私の元に生まれてきてくれた赤ちゃんは、私に命や愛情の尊さを、
現実と向き合う大切さを、自分の命をかけて教えてくれたのだと思っています。

今では長男も19歳になり、3人目の子供も授かり、天国の赤ちゃんに感謝しながら、
生かされている毎日に感謝しながら、幸せに楽しく暮らしています。

2010.10.10 投稿者:kana

私は11週6日で我が子をお空にかえしてしまいました。
私自信が助産師、旦那が小児科医。
ハイリスクばかりみていた私達は妊娠をあまくみていました。
赤ちゃんがこんなにも弱かったなんて…

わたしは助産師として患者さんに多くのことを指導していました。
それなのに、わたしは指導内容を無視し無理ばかりしていたように思います。

次の子がお腹にきてくれたら大事に大事にします。
げんきにうんであげれなくてごめんね。
ちいさい小さいあなただったけど私が今まで会ったあかちゃんのなかで一番愛おしかったです。

2010.09.30 投稿者:まめたママ

58歳男性ですがコメントさせていただきました。(少し体験談の主旨とちがいますが申し訳ありません。)

私は高位型の鎖肛と腸の一部が壊死していて生まれてきました。

普通だったら胎内もしくは生後直後に命が無かったかもしれません。よっぽど命運の強い持ち主とも言われました。生後直後に緊急手術で人工肛門を造設しました。17年間がその生活でした。

障害をもって生きていくのには、精神的な苦痛で、それは険しい道のりで大変です。どのように言い表せばわからないほどです。でも、せっかく何かの縁で命を授かってこの世に生まれてきたのですから、どのような苦難があろうと精一杯生きていかなければなりません。

普通の体(健常者)で生まれて当たり前、それが、なんらかの原因で障害をもって生まれてくる、これだけは、誰のせいでもない与えられた宿命とも、物心がついてから自分自身で考えられるようになるまでは時間がかかりました。

また、そのように生まれてきれ誰もが経験出来ない貴重なことも知りました。それから、17歳から21歳前までの人工肛門を閉じる闘病生活(私の場合はお尻の括約筋および神経機能もほとんど無い状態)で、ほとんど克服の見込みのない闘病生活への挑戦でした。

長い期間がかかりましたが、医学技術(今から40数年前)にしては、ほんと、まれなことですが運良く約95%まで克服できました。これは、術後からは自分自身の努力(練習)も必要で途中で挫折でもしてみるとありえないことです。

また、他にも私とちがったいろんな障害をもって生まれてこられる赤ちゃんもいらっしゃいますが、みんな自分なりに一生懸命、頑張って生きていらっしゃる人もたくさんいらっしゃいます。その姿を目にすると、つい自分のこととスライドしてしまいます。

生まれるって素晴らしいことですが、また非常に心苦しいことですが胎内で天使になられることもありますが生まれてきた以上は悔いのない良い人生を送らるよう願っております。

2010.09.26 投稿者:タ-坊

【2008年3月23日】
当時つきあっていた彼にプロポーズされました。

婚約から数週間後のこと、妊娠がわかりましたが、傷害事件に巻き込まれて流産。
3ヵ月目でした。
色々有りまして婚約者の耳にも入り、犯人が私の親戚(叔父・母の弟)ということから彼の父に断られ破談に。
実際、彼と私の子供を殺したことになりますから。。。
自分の家庭も仕事もうまくいかず私の結婚が妬ましかったと後から叔父本人に聞きました。


【2010年1月5日】
今の彼からプロポーズされ直後に妊娠がわかりましたが今年の1月5日に第二子を流産。
8週目でした。
私があまりにも泣くものだから彼はずっと傍にいてくれました。
絶対私の前では弱みを見せなかった彼、夜中に居間で一人酒を飲み泣いていた。


【2010年5月21日】
5月15日に妊娠がわかりましたが、6週で流産。
婚約解消を申し出ましたが、彼も彼の家族もこのままお付き合いしたいと言ってくれました。
不育症の恐れがあることも話しましたが、彼と話し合い一緒いることに。

今、私は普通に生活して、会社に行って、ときに笑っています。
家族、彼、友人たちの支えがあるから。

周りを見てみ?
実家に帰れば迎えてくれる家族。

流産したときに仕事を切り上げてすぐに駆けつけ、ずっと傍にいてくれた彼。

子育てに多忙な高校時代の友人Eは、私を傷つけまいと私の知らないところで私の気持ちを理解しようとしていた。

本やネットを通じ、経験者の声を聞いたのかもしれないことがうかがえるほど精一杯の温かい声を掛けてくれた。

私の周りの人たちはこんなにも温かかった。


どんなに理不尽なことをされても復讐はいけない、乗り越えて幸せになることが大切。
わたしが周りの人たちから愛されていること。
これを自分の命をもって教えてくれたのは愛しい3人の子供たち。

私の体は子供が産める体ではなくなりました。
でも、もう3人の天使のママです。
いっぱいごめんねとありがとうの涙を流しました。

同じ経験をされた方、無理しないでいっぱい泣いて、いつか幸せに気づけるように。

2010.09.15 投稿者:京

長女5歳、次女0才の間に2回流産しました。
1度目は8週目で心拍確認後の流産、2度目は6週目での流産でした。
何で続けて??なんで15%の確立の中に私が入るの??
そして、また流産するかもしれないのに
あの悪阻をまた経験するのは辛いし・・・(悪阻が酷かったので)と思ってました。
それでも主人はどうしても欲しいと伝えてきました。

それなので3度目妊娠した時は「3度目の正直」「2度あることは3度ある」
どっちだ??と毎日不安な日々を送り、出産するまで毎日祈ってました。
そして、今年無事生まれてきました。

正直、流産した経験があったからこそ
「うまれる」という大切さ、命の大切さが解りましたし
死産、流産などの体験談を読み、もっと辛い経験をしてる方が
沢山いて、そして前に向かおうと頑張ってる事が身にしみます。
(私の母も41週での死産を経験し(私の亡き姉)、今となって、その悲しみが
伝わりました)
勿論、悲しい経験はしたくはありませんし
全員が元気な赤ちゃんが生まれてきてくれる事を願ってるとは思いますが
こうゆう経験が決して人生でマイナスな事では無いと思いました。

最近の虐待や育児放棄の事件・・・
多々ありますが
子育てに悩んでるママにも是非
「うまれる」を感じて欲しいと思いました。

2010.09.13 投稿者:さやママ

結婚してから赤ちゃん欲しいね・・と話しながらも、夏は海、冬はスノボーなど
好きなことを散々して過ごしていました。
結婚して3年目の初夏。陽大が私のお腹に来てくれました。
妊娠がわかったときは、本当に嬉しくて愛しくて愛しくて・・。


私は外科病棟の看護師です、夜勤もギリギリまでしていました。
検診に行くたびに「順調だね」と言われ、本当なら安心できるはずが、なぜか不安。
初めての妊娠だからかな・・なんて思いながら過ごしました。
7ヶ月を過ぎた頃から『赤ちゃん少しチビだね・・お母さんに似た?』と言われるようになりました。
でも検診では『順調』とのこと。
『産休に入ったら、なるべく寝ているようにしてね・・そしたら赤ちゃん大きくなるよ』と。
無事に産休に入り、なるべく横になって過ごしていましたが、
やはりどうしても気になり年末の診療最終日に自ら診察を受けに行きました。
『大きな病院に行こうかね?』それが先生からの言葉でした。
『順調だけど、年末だし念のために大きな病院で診察を受けておいたほうがいいと思う』との返答。
それはどういう意味なのか・・
とにかく、大きな病院へ行き、救急で診ていただくことにしました。
それからは嵐のように時間が過ぎました。
『胎児仮死』『羊水過少』『赤ちゃん弱ってるかも・・』
そんな恐ろしい言葉が飛び交う中、受診して5時間後には緊急帝王切開で陽大を出産しました。
1686g・38cm・・陽大の小さな小さなか弱い産声を聞いたとき、大粒の涙が出ました。

陽大は、うまれてすぐにNICUへ入り、身体中にモニターと点滴、酸素と胃へのチューブ・・。
自力呼吸はできていましたが、次第にむくみも出てきたため人工呼吸になりました。
大きくなれなかったのは心臓が悪かったからだろうとのこと。
陽大は、生まれて19日目に心臓の大手術を受けました。
手術後の経過も波があり、安心できる状態ではありませんでしたが、
陽大は私たちを見付けると甘えたような表情を見せて、口をモグモグさせて・・・
そうして私たちをパパとママにしてくれました。
私は、「陽大、ママよ」「あとは大きくなるだけだからね、一緒に頑張って早くお家に帰ろうね!」と
毎日NICUへ通い、陽大に話しかけました。


「大きくなるだけだよ・・・早くお家に帰ろう!」そういつものように話しかけ、
「また明日ね」と自宅へ戻った翌日、陽大は空にかえってしまいました。
みんなに「ありがとう、またね・・」と挨拶をしているかのような時間の経過があり、
私とパパの腕の中で目を閉じ、スヤスヤと眠ったまま穏やかな表情でみんなに見守られながら。。


うまれて3ヶ月と19日。
その間、陽大を抱っこしたのは5回です。
だけど、今でも陽大の温もりと重さと、ちいさなちいさなか弱い声・・そしてニオイ。
パッチリ開いた目、小さな手・・みんなみんな覚えています。。


「うまれる」
みんな自分でママやパパを選んで、人生を受け入れてママのお腹に入るのですよね。
どうして私が・・??陽大、ごめんね・・。あいたいよ・・。
などなど今でも感じることは沢山あります。
でもこの現状も、全部全部私自身が決めたこと。神様と約束してきたこと。
ただただ目の前の現実をありのままに受け入れる。
それは実はとっても酷で、でも実はすごいことなんですよね。

最近になり、やっと陽大のお墓を建ててあげることができました。
『陽大がこの世で生きた証』です。
「またね」と約束して陽大を見送ったあの日から、沢山の時間が流れました。
いつか必ず会えると信じながら、夢は叶うと想い続けつつ、
陽大を安心させてあげられるようになりたいな。
「うまれる」映画を観ながら陽大を思い出し、陽大を感じて、そしてまた前に進みたいと思います。

2010.09.11 投稿者:ひなたんママ

2010年4月に結婚し、同じ月に妊娠発覚。
元々、双角子宮と言われ妊娠しにくい・・・。そう言われてた矢先の妊娠でとてもうれしかった。
妊娠初期に数回出血があったものの入院する事もなく、安定期にも入り、あと数日で6カ月に入る所まで来たときだった。前期破水・・その時、18週。ほぼ助かる見込みがなく、もし産まれてきても障害が残るだろうと言われ旦那さんと話し合い、出した答えは妊娠中断。
次の日には処置が始まり、8月27日。12時36分。208gの男の子を出産。19週2日でした。
思ってた以上に大きく、体も全部できててその姿を見た時は涙が止まりませんでした。産声を聞くことのない出産。旦那さんがパパとしてやった初めての仕事は死産届を出しにいく事でした。
その2日後、旦那さんと火葬場へ行きそれが最初で最後の家族3人でのお出かけでした。骨も残る事がなく、あるのは心の中の思い出だけです。
けど、この子はあんなに小さいながらも命がけで教えてくれた事は多く、今まで、妊娠=出産だと思ってた自分が恥ずかしくなります。出産できる事が奇跡なんですよね。ましてや、子宮が2つあると言われ、妊娠しにくいと言われた中での妊娠は赤ちゃんが命をかけて教えてくれた事だと思います。それから、妊娠してから情緒不安定になった私からいつも八つ当たりされてた旦那さん。朝早い時間から夜遅くまでいつも仕事してたのに私が辛かった時はずっとそばにいてくれたね。私の前では1粒の涙も見せずにただそばにいてくれて、それが嬉しかった。ありがとう。

小さな赤ちゃんへ
こんな形で産んでしまってごめんね。できる事ならまだお腹のいさせてあげたかった。だってみんなあなたが産まれてくるの楽しみにしてたんだよ。
でも、エコーで見るあなたの姿はすごく苦しそうに丸まってて・・・。羊水とママの子宮がもう少しあれば助かったのかな?あなたはどうしたかった?まだあの時、あなたの心臓は動いてたのに。。
パパとママが勝手にあなたの人生を決めてしまった。今、あなたにはすごくさみしい思いをさせていると思います。もうしばらくはまださみしい思いをさせると思うけど、待っててね。ママがそっちに行った時はいっぱい抱きしめるから。
そして、ママになる喜びを教えてくれてありがとう。
あなたは立派なパパとママの一番最初の息子だよ。


2010.09.07 投稿者:はやと

私の姉は、妊娠6ヶ月の時、子宮頸がんが発見されました。
がんが進行中ということで、お腹の中の赤ちゃんをどうするか、とても難しい状況でした。
3人目の赤ちゃんだったので、もし姉の命が失われたらまだ幼い二人の子どもがかわいそうだ、
そう言って姉の夫は譲りませんでした。
6年前の6月24日、姉の3番目の娘、未来ちゃんは、産まれてきて、その日に亡くなりました。
700グラムの未来ちゃんはとってもきれいで、目を閉じて、静かに横になってました。

本当は、未熟児として育てることが出来たのではないか。
そこは、私には知らされず、姉にはどう説明したのか、真実は兄と医師しか知りません。
姉が未来ちゃんを育てられないというなら、私が育てれば良かったのではないか。
未来ちゃんのお葬式の日、「ごめんなさい」という気持ちでいっぱいでした。

今、私は初めて妊娠をして、8ヶ月になります。
6ヶ月で、このお腹の赤ちゃんとお別れしなきゃいけないというのはどんなことなのか、それ
までは想像しかできなかったけれど、今は痛いほどわかります。
子宮を全摘し、放射線治療に耐えた姉は、今のところ再発はなく5年が経ちました。
姉はいつも私のお腹をさすり、いっぱいいっぱい話しかけてくれます。

先日、「うまれる」の3回目のイベントに初めて参加させていただきました。
ミニコンサートで、涙とまりませんでした。
これからも、未来ちゃんのことを忘れずに、私に授かった新しい命との一日一日を大切に
向き合っていきたいと思います。


2010.08.18 投稿者:あおい

2010年1月、周郭胎盤による前期破水で妊娠継続は困難と言われ、待望の長男を空へかえしました。
破水をしたのが17週。入院して様子を見ましたが状態は変わらず、19週6日分娩しました。
19週なので、死産証明が出され、火葬し、納骨しました。息子は存在していたのに、戸籍にも残らず、生きていた証明が私たちの記憶の中にしかないのは本当に辛いです。死産証明は出されたけど「流産」だという事実と、私の中の「死産・流産」のイメージにギャップがありすぎて、気にする必要のない言葉の定義にさえ振り回され、やり場のない悲しみに囚われ、生きている娘(5歳)や支えてくれた主人を大事にしてあげられなかった時期がありました。情けない母親です。
今はまた家族3人、まだかまだかと息子(または息子が送り出してくれる赤ちゃん)のかえりを待っています。

2010.08.17 投稿者:ぺんぎん

小学2年生の長男と3歳次男がいます。
この二人の間に3回流産しました。

長男が2歳になる前に、2度目の妊娠が分かりました。
経過も順調でしたが、教師をしており、担任があったため、クラスで妊娠のことを話すと
「担任のクセに妊娠なんて、無責任」
という言葉が生徒や保護者から返ってきました。
この言葉がとてもショックでしたが、無責任と言われないよう、少しくらい体がつらくても意地になって働きました。
それがたたったのか、14週の検診で、心拍が取れずぐったりと横たわった赤ちゃんの姿が。
未だに大切にその写真を取っています。
亡くなったのが11週くらいではないかということでしたが、時間がたっていてふやけて膨らんでいるような写真。
私はそれ以降、他人に何を言われようが、絶対無理をしないと決めました。

その後、長男が2歳、3歳のときも妊娠しましたが、いずれも大出血で8週前後に流産しました。
もう、子どもは産めない体なんだと思い込み、長男に兄弟ができないとあきらめていました。

長男が4歳になったころ、再び妊娠。
おなかで死んだ子が帰ってきた!と思いました。
もう、絶対この子は死なせない!と思い、病院を変えました。
度重なる流産で心を病んでしまい、パニック障害を抱えていたこともあり、大きい病院を受診したいと思ったからです。
初期から流産防止のため、薬を飲みました。
薬は飲みたくないなんて言ってられません。必死でした。
途中、3ヶ月と5ヶ月のとき、大出血を起こし、流産も覚悟しましたが、無事生き延びました。
それが次男です。

そして今、通算6度目の妊娠中です。
長男は「おなかで死んだ赤ちゃんが帰ってきたんだよ!」と大喜びでした。
私も、長男の意見に同感です。
今回も流産防止のため、投薬治療を続けながら頑張っています。
きっとまた一人、帰ってきてくれたのだと信じつつ。

2010.08.13 投稿者:ゆっきい

もうすぐ4回目の月命日です。
結婚して12年、待ちに待った長男の出産予定日は3月31日でした。

去年の夏妊娠がわかり、病院へ行き妊娠確定した日に「まだどうなるかわからない、」
と不安になる私とは対照的に夫は「(赤ちゃん)やっと来てくれたんだから早く
みんなに知らせないと!!」と夜には親、姉妹に電話をし、私たちはみんなに祝福
されて幸せな妊婦生活がスタートしました。

名前は、なにごとも成し遂げられる子になって欲しいとの想いから
「成」夫の希望通り漢字一文字。
胎児ネームはなく、ずっとこの名前で呼んでいたので胎動がわかるようになってからの
反応も凄く良かったです。夫の声にも良く応じて動くお父さん思いのいい子でした。

妊娠経過は順調で、12月には二人のクリスマスプレゼントとして3Dの撮影もして、
一足早くお腹のなかで笑っている息子に会うことができました。

10ヶ月、38週1日にうけたNSTで心音がひろえず、即入院でした。
翌日の夜になるだろうと言われていたのに、親孝行のいい子で陣痛がうまく進んで
自然分娩の形でお昼に出産となりました。

3月19日 午後12時31分
2730グラム 48,2cm
夫そっくりのつむじをつけた、うねうねのクセのある髪の毛、すらりと長い足、
白い肌、目はつむっているところはかろうじて私に似ているかな?という
夫のコピーのようなかわいい男の子

息子を空に見送る日は、虹がかかりました。
斎場に向かう車のラジオでは、贈る言葉が流れていました。
最後に会った息子には、夫が息子のために一人で買いに行ってくれた青い靴の柄の靴下、
着せたら一番似合うだろうなと思うベビー服をかけ、大きく名前を書きました。

息子は私たちに、知らなかった「親になる喜び」を命をかけて教えてくれました。
そして、夫の存在の有難さに気づかせてくれました。
人生で一番辛い瞬間のあの日から、今の私がいるのは夫がそばにいてくれたから。
息子と、夫には感謝の気持ちでいっぱいです。
お誕生日おめでとう。これからもよろしくね。

産声は聞けなかったけど、妊娠できて良かったと心から思います。
親になる。を叶えます。

2010.07.10 投稿者:成ちゃんママ

去年2人目を妊娠9ヶ月34週と5日で私のお腹の中で急に亡くなりました。
ある日いつものように1歳の息子と一緒に昼寝をしていてそのときにお腹で動いていたのが最後でそこから急に動かなくなり、旦那が帰ってきてから病院で見てもらうと原因がわからないが心臓が止まってると聞かされ、頭が真っ白になり、そこからは、ずっと泣いて泣いて現実を受け入れられませんでした。
それから即入院して2日後に自然分娩で娘を産みました。8月27日2020g見た目は、周りの新生児と変わりなく生きているか亡くなっているかの違いだけでその晩は、たくさんの身内が来て娘を抱いてくれました。娘は、私のお腹の中でなくなったけどお別れにたくさんの人に抱っこされて、見送られたのは、幸せだったのかもしれません。
お産した二日後にお骨上げして予定日が過ぎた頃にお寺にあずけました。
水子供養という扱いで名前も籍も残らないのがすごく残念でいます。
もうすぐ一年になりますが、去年私の姉や義理の姉やお友達が子供を産んでいます。
正直当時は、赤ちゃんの顔を見ることも会うことも辛く、この辛いという気持ちをわかってもらえずやっと一年たった今、精神的に落ち着いた気がします。
でも死産を経験しましたが、私の息子が一番私の心の支えになってくれました。
名前も籍も残らないですが、私の旦那、私、息子の心の中で生き続けています。
顔も見れてぎゅっと最後にずっと抱いてあげれて本当に辛かったけどよかったと思っています。
生まれて来れなかったけど娘にありがとうそしてパパもママもおにいちゃんも心から愛してると言ってあげたいです。

2010.07.06 投稿者:みっく

大きい病院に搬送され、検査。即入院となりました。
説明されたのは、膜を押し戻して子宮口を縛って、妊娠を継続させる手術もあるんだけど、膜が外に飛び出してきてることで、そこから菌に触れ、感染していると、その手術はできないそう。
ずっと点滴打って寝たきりで、おしっこも管を通して治療に専念しました。毎日泣きながら、点滴の副作用で苦しくて眠れなくても、なんとかなる!大丈夫!そう自分とお腹の中の息子に言い聞かせ…

…でも検査の結果、症状が改善されず…
赤ちゃんのいる膜が感染してる確率が高いそう。
その膜は脆いから、感染することで破けやすくなるとのこと…

子宮口を縛る手術はできないと言われました。 妊娠の継続は厳しいって…。
点滴の治療を続けていけば、投与量も増えていき、負担は大きくなる…
その治療を続けることで必ずしも良くなるとは言えない
もし、あと2週間くらい持ちこたえて超未熟児で生まれたとしても、生存率は50%。
うまく生きれても、後遺症、障害が残る確率は50~70%。
今はまだ赤ちゃんの肺機能ができてない時期だから自発呼吸もできるかどうか…
助かるなら助けたい。
私が寝てて済むなら、いくらでも。私が苦しいくらい、赤ちゃんを救えるならばなんてことはない。

どん底でした…
たくさん泣いて、 それでも涙は枯れなくて。

たくさん悩んで、考えて、話して…
それでも答えは出なくて…。

それでもたくさんたくさん泣いて悩んで考えて話して…時間足りないけど、夫婦で出した答えは、妊娠の継続をストップさせることでした。

6ヶ月、ママのお腹にいたのよ…?
それをたった一日で…。
でももしかしたら、苦しくて動いてたのかもしれない。私に動いて教えてくれてたのかもしれない。そう思うと、長くは時間かけれない…

先生に決断した答えを伝えるのに、泣いて声が出なくなる。
でも母親として、しっかり答えを伝えたくて、叫ぶような絞りだすような…声にならない声で伝えました。

すると夜には点滴は外れました。
部屋には旦那さんと母と義母がいて…
母は、いつもポヤポヤしてるあんたが、よく言えたねって泣きながら頭を撫でてくれて…。

翌日、自然分娩の形でお産しました。だいたいこのくらいの赤ちゃんは、産道を通ってくるうちに亡くなってしまうんだとか…。

旦那さんはずっと立ち会ってくれてました。
10月22日 体重500グラム。
身長28センチ。
21週6日。
男の子でした。

全部生まれても赤ちゃんは泣かない。 赤ちゃんはすぐに助産師さんに抱きかかえられてどこかへ連れて行かれ…
その後、無事胎盤も出てきて終わり、綺麗にしてもらい病室に戻りました。部屋に戻ると母と妹と、義母が待っててくれて…顔見たら泣いちゃうからうつむいて。。
少ししたら、赤ちゃんも綺麗にされて、病室に連れて来てもらえました。

姿を見た瞬間、こらえてた涙が一気に溢れ…
泣かない動かない私の赤ちゃん…
頑張って出てきてくれた…

小さな小さな私の赤ちゃん。
指も爪もまゆげも全部綺麗にあって、眠るような姿でした。
愛おしいと思いました。
かわいくてかわいくて…その姿を目に焼き付けました。

次の日、検査をして、大丈夫そうなので退院ということに。
赤ちゃんは霊安室にいるから、早めに連れて帰りたいのもあったので、退院も早めました。
そして退院の日の朝。
赤ちゃんを棺に入れ、大切に抱えて帰りました。
車に揺られ、しばしパパとママと家路までドライブ。
涙が止まりませんでした。 一緒に散歩した道、風景…悲しくて悲しくて…。

帰宅した後は、寝室をクーラーで冷やし、赤ちゃんにダメージが少ないようにしてパパとママのベッドに寝かせ、午後には火葬するからそれまでの間、久しぶりの家を見せてあげました。
棺の中をお花でいっぱいにして、着るはずだった肌着を着せて、ママが作ったスタイも入れて…

やがて、火葬の時間が近づいてきて、喪服に着替えて赤ちゃんを棺のまま火葬場に。
駐車場に着いたけど やっぱり渡したくない。

涙がまたまた…

それでも自分に言い聞かせ、赤ちゃんを火葬に…

最後の時、泣き叫びました。
倒れそうになる私を旦那さんや母、妹が支えてくれ、終わるまで待ちました。
30分くらいして…
『終わりました』

湯呑みくらいの小さな骨壷に入って、おうちに戻ってきました。
名前は暖人(はると)です。

たくさんのことを教えてくれた息子。前よりももっとパパのことを好きになったし、改めて命の大切さに気付かされました。自分がここにいることの神秘さ、感謝の気持ちでいっぱいです。
こころから、ありがとうとごめんねを…。

2010.07.03 投稿者:あにゅ

不妊治療2年でやっと授かった赤ちゃん、
40歳を超えた高齢出産で不安はありました。

切迫早産で2カ月入院、その中我が子が18トリソミーと診断され、後もう少しで8ヶ月になる頃突然の破水。
陣痛に耐え切れなかった息子は私のお腹の中で天使になってしまいました。


2010年1月 685gの小さな可愛い男の子。
産声は聞こえないけれど、産む事ができました。

産院のスタッフの皆さんは息子を他の赤ちゃんと同じように接してくれて、とても嬉しかったです。

御見舞いに来てくれた友人から最高に嬉しい言葉を言ってもらえました。

「お母さん、○○くん頑張ったね。おめでとう。」

誰からも言ってもらえなかった言葉「おめでとう」
きっと息子も喜んでいただろう。

沢山の奇形や疾患があっても、お腹の中で生きていた息子はとってもガンバリ屋さんだったと思います。

私は息子を誇りに思う、私をお母さんに選んでくれてありがとう。
私達に色んな事を教えてくれたあなたは、自慢の息子です!

2010.06.30 投稿者:ゆうママ

今月の26日で息子が天国に逝ってから1年になります。19週でした。
結婚して8年、不妊治療(人工受精)で授かった子でした。
切迫流産で1ヶ月の入院、でも無事に乗り越え退院。
つわりと鼻炎があって辛いなって思ったけどお腹にいることがすごく幸せでした。
陣痛は痛かったけど出血もなく具合が悪くなることもなく、ママの体に負担をかけない
パパ似の優しい息子。
そんな息子の兄弟を今待っています。きっと来てくれると信じて。

パパがすごく優しくなって、ママもパパのこと前よりももっともっと好きになりました。
家族の絆を深めてくれた息子に心から感謝します。


2010.06.11 投稿者:ぴーすけ

2009年秋、予定日より一ヶ月早く女の子を死産しました。
38歳、人工授精で授かった初めての命でした。
生まれる12日前の検診では元気に動いていたのに。
胎動を感じられなくなって診てもらったら、もう赤ちゃんの心臓は
動いていませんでした。『どうして・・・?夫に何て知らせよう・・・びっくりさせないように・・・』
震える手で何度も何度も書き直して、結局辛く悲しいメールを送るしかありませんでした。
夫が家族への連絡、死産の届け出、棺と火葬場の手配など、
悲しむ間もなくやってくれていました。
私はベットに寝ていて何もできず、夫が一番辛かったろうと思います。
『夫がこんなに頑張っているのに・・・、私も頑張ってこの子を生んであげよう。』
そう思いました。とても可愛い赤ちゃんでした。産声はなくてもとても幸せでした。
幸せはつかの間でした。生まれて数日でわが子を棺に納めるのは、とても辛いものでした。
『みんな元気な子供を生んでいるのに、私はそれもできない駄目な人間だ。』
と自分を責めることもありました。
現在は、二人目の子を授かりますよう治療を続けています。
きっとこの子に妹弟ができますように。

  

2010.06.11 投稿者:さっちゃん

6月25日、もうすぐ、お空に帰した赤ちゃんの、命日が来ます

13週目で、繋留流産でした

主人に、電話で、そのことを告げる時に。。口に出せば、この現実を受け止めることになる

涙で、「赤ちゃんがね・・・」の先の言葉が、言えませんでした

動かない、赤ちゃんをエコー画面で見ながら、明日には、動くのでは?

と、、、バカなことを先生に聞いたのですが

頭は、混乱していました  そんな、訳が無い・・と

さよならする、手術の当日は、大雨で・・・

梅雨時期の、雨音を聞くと・・・ お別れの日を思い出します

日に日に、つわりも去り、、、もう、自分のカラダから居なくなったことを
自覚させられる

もう、5年・・生れていたら、5才

いない子の、年を数えてしまいます

主人がつけた、名前は『幸』です、私たち夫婦はとても
幸せでした

お空でどうしているか・・『幸』に、会いたいです


2010.06.07 投稿者:nonko*

2008年に38歳で結婚し、2009年10月に妊娠9週目で流産。

「今度こそ必ず元気な赤ちゃんを産むんだ」

と仕事を辞め、今年3月に再び赤ちゃんを授かりました。
妊娠5ヶ月を過ぎ、お腹もぽっこりとしてきて、ようやく流産の不安から解放されたと思った時に。


赤ちゃんの心臓が止まっている


と、先生に言われました。
その5日後に32グラム、10センチの息子を出産しました。
9日前のことです。

毎日毎日お腹に語りかけ、神様に祈ってきたのに。

どうして、こんなに悲しいことになってしまったのだろう。

でも、もしかしたら。

息子は命がけで、私に何かを教えてくれたんじゃないかと思いました。


ちゃんとママになれること。
ママになる喜びを。


その証拠に、生まれた小さな小さな息子を見た時、可愛くて仕方なかった。
愛しさで胸がいっぱいになったのです。
こんなに悲しくても「あきらめたくない。赤ちゃんを抱きたい」と思わせてくれました。

そんな可愛くて優しくて頑張りやさんの息子のためにも。
今度こそ、絶対にこの手に赤ちゃんを抱く。

空にいる二人の天使のためにも、絶対にあきらめません。

2010.06.04 投稿者:あかり

2008年に38歳で結婚し、2009年10月に妊娠9週目で流産。
「今度こそ必ず元気な赤ちゃんを産むんだ」と仕事を辞め、今年3月に再び赤ちゃんを授かりました。
妊娠5ヶ月を過ぎ、お腹もぽっこりとしてきて、ようやく流産の不安から解放されたと思った時に。
赤ちゃんの心臓が止まっていると、先生に言われました。
その5日後に32グラム、10センチの息子を出産しました。
9日前のことです。
毎日毎日お腹に語りかけ、神様に祈ってきたのに。
どうして、こんなに悲しいことになってしまったのだろう。
でも、もしかしたら。
息子は命がけで、私に何かを教えてくれたんじゃないかと思いました。
ちゃんとママになれること。
ママになる喜びを。
その証拠に、生まれた小さな小さな息子を見た時、可愛くて仕方なかった。
愛しさで胸がいっぱいになったのです。
こんなに悲しくても「あきらめたくない。赤ちゃんを抱きたい」と思わせてくれました。
そんな可愛くて優しくて頑張りやさんの息子のためにも。
今度こそ、絶対にこの手に赤ちゃんを抱く。
空にいる二人の天使のためにも、絶対にあきらめません。

2010.06.04 投稿者:あかり

2010年4月20日。
初めて妊娠したわが子を18トリソミーという染色体異常で失いました。
私のお腹の中で、151日という短い間でしたが精一杯生きてくれた愛しいわが子。成長も遅く264g、21センチと小さい小さい身体でも、本当に強く、やさしい子だったと思います。
対面したときは涙ばかりでしたが、しっかりと胸に抱いてあげることができました。パパに似たすごくかわいい男の子でした。妊娠3ヶ月になるころから、頸部浮腫が確認されており、最悪の事態も覚悟はしていたものの、ショックは想像をはるかに超えていました。
涙が止まらない毎日で、夢も希望も何もかもが消えてなくなってしまいました。
生きて、生まれてくることができなかったわが子は、戸籍上は存在しないことになってしまいます。でも私達夫婦の間ではいつまでも消えることのない愛しい記憶、大切な第1子となります。これから先、いつまでも一緒です。
とてもいい主治医とめぐりあい、今は心の傷をケアしながら1歩前に踏み出しました。
次の妊娠は、この子と一緒に頑張るんだ!と胸に誓い、少しでも上を向いてこの子の分も生きていこうと思っています。

2010.05.31 投稿者:蒼ちゃんママ

2007年1月5日、染色体異常の18トリソミーの娘が誕生しました。
8ヶ月と27日の命をもって、その年の10月2日にお空にかえっていきました。

言葉にならない衝撃と挫折を感じ、自分自身生きていくことが精一杯でした。
私は、そのとき10歳になる1人の息子がいました。

当時10歳だった息子は、長年欲してきた兄弟の誕生を大喜びしたのに、
わずか、9ヶ月弱で、10歳の子は、妹の亡骸をかかえて泣いていました。

私だけの悲しみじゃなかったけど、親として、1人生きていく子供の命と、1人失った子供の命。
なにか、大きな責任を感じ、どうしようもない気持ちでした。
自分の人生で、反省することや間違った行動を探してそれを理由にして、
すべては己のバツとしていました。

そのほかにも私は4回流産しています。

流産を繰り返してやっと、授かった子供たち。
生きているのに妹の死に泣いている子、生きれなかった子。

そして今、42歳で妊娠9ヶ月目を迎えています。
色々な思いで最後の1ヶ月を過ごしています。
同時に姉は48歳で末期のガンで子供がいながら闘病生活をしています。
父も末期がんで余命宣告を受けてます。

死を経験してみて、これは特別なことじゃないと思えるようになりました。
いつだって死はついてまわる。
平和な日常しか知らなかった時のことをおろかに感じています。

2010.05.22 投稿者:しほこママ

2003年8月,初めての赤ちゃんを死産しました。

 不妊治療をはじめて3年目初めての人工授精で,やっと授かった子どもでした。
39歳という高齢妊娠でした。小学校教師という職業柄,疲れ切った毎日を送らざるをえなかったり,胎教に悪いと思いつつも子どもを叱らなければならなかったり,おまけに母も叔母もひどい妊娠中毒症で入院した経験があり,しかも叔母はそのために死産しているという不安もありました。それでも,検診に行くたびに大きくなるお腹の赤ちゃんがうれしくてうれしくてたまりませんでした。
 でも,5ヶ月に入ってすぐ,疲れすぎて入院,病休ということで仕事をお休みしました。幸い,お腹の赤ちゃんは元気よく育っていました。
 病院の先生から「もうすぐ生まれますね」と言われた次の日の夜,お腹が痛くなって病院へ行きました。でも,看護師さんが心音を探したら,確認されないのです。実はその朝に1回胎動があってから,赤ちゃんは動かなかった。出産間近になると胎動が少なくなると聞いていたので,不安ではあったけどあまり心配していませんでした。
 でも,赤ちゃんの心臓は止まっていました。「どうして?」という気持ちでいっぱいになりました。昨日まで心臓動いていたのに。なんでこんなことになるのか。赤ちゃんは死んでしまったけど産んであげなくてはいけない。パパにとっての初仕事は赤ちゃんの棺桶を買いに行くことでした。
 産んで後,解剖して死因を調べてもらいましたが,はっきりしたことは分かりませんでした。「後から思い返したら,最後の検診の時赤ちゃんが苦しそうな顔をしていたように見えた」「胎動がなくて不安になったときにすぐ,病院に行けばよかった」「もしかしたら障害を持っていた子だったかもしれないのに,心も体も元気に生まれてきてねって望んだから,神様に取りあげられたんだろうか」等と,後悔の念ばかりでした。
 お腹にいた赤ちゃんと3人で家を出たのに,帰ってきたのは2人だけ・・・。生きて生まれてこなかったら,赤ちゃんがいたことは戸籍には残されない。わたしたち親が覚えていてあげないと,なかったことになる。お腹の中では,ちゃんと生きていたのに・・・。
 しばらくは,赤ちゃんの写真を見ることも妊婦さんを見ることもできませんでした。わが子を亡くしたのに人の子どもを教えることなんてできませんでした。立ち直ることができたのは,同じつらい思いをした夫の存在と,ネットで知り合った死産した経験を持つ人たちとの交流でした。
 「命を大切に」と子どもには教えていたけど,どんなに大切かなんてわたし自身が実感していなかった。「生きて生まれてくる」それだけで,どんなに尊いことなのか分かっていなかった。生きてこの手に抱くことができなかった,声を聞くこともできなかった子でさえも,こんなにも愛しいものなのだ。
 その後,子宮筋腫の手術,体外受精での妊娠,超初期流産を経験し,なんと自然妊娠で男の子を授かりました。現在4歳になります。

 職場に復帰して以後,わたしは,毎年,子どもたちに「いのち」についてのメッセージを伝えています。お空の天使ちゃんが教えてくれたことを話しています。
 

2010.05.15 投稿者:みりん星

助産院で働く助産師です。
池川先生のファンで講演会にもよく参加してます。
私も3度の流産経験者です。
1人元気に生まれてきてくれた息子がいます。
1度目は病院で手術、2・3度目は自宅で産みました。
「どうして自分ばかり…」という気持ちが強かったのですが、
時間がたって
「私は4人のお母さんなんだ。お空に帰ってしまったけど、子供たちは私のおなかを選んできてくれた!それでいいじゃないか。」と思えるようになってきました。
4歳の息子が「お母さんが頑張って生きていくためにやってきた。」という言葉をくれたので
それを支えに頑張って生きていくつもりです。
5人目の赤ちゃんが来てくれるのを家族3人で待っています。

胎内記憶・自宅出産・助産師の目から見た出産など話したいことあるのですが
今ふっとお空の赤ちゃんたちが頭に浮かんだので、この項目に記入してしまいました。


2010.04.28 投稿者:shiho

 私は周産期以外の場所で働く看護師ですが、第一子を出産後に「誕生死」という言葉を知り関心を持ちました。
職場の助産師達が企画した「誕生死」の学習会に参加し、母親や家族の悲しみとその悲しみへの向き合いに寄り添うケアについて知りました。

 その後二度目の妊娠。
約2か月の間だけ私の中にあった命でした。

命は確かに私の中に誕生し、そしてお空に帰って行ったと受け止めること、我慢せずにしっかりと悲しむこと等、対処の仕方も知っていました。

しかし、知っていることと体験することは違っていました。

いくら上手にケアしてもこんなにも悲しいなんて。
流産と診断され予定手術となった前夜、横で眠る2歳の我が子のように抱きしめて子守唄を歌ってあげられないと思った時、悲しさが込み上げてきました。

 手術後、体験記を必死で探して読みました。
どの体験記も私より辛い状況でした。
私は最初から心拍が確認できず妊娠初期から心構えがありました。
職場の顔見知りの医療スタッフによるケアのため優遇されてもいました。

それでもこんなに悲しい。よくある早期の流産でも悲しみが軽いなんてことはないのです。
 流産したと告げると知人の中に体験者がたくさんいることを知り驚きました。

それだけ、語られることなく多くの方が深い悲しみのまま抱え込んでいるということも知りました。

 娘は5歳になり昨年弟の出生に立会いました。
抱っこやおむつ替え等とても良く面倒をみています。
そんな今でも直接会うことはなかった妹の名前を時々話すことがあります。

どちらの存在も家族として受け入れ愛おしく思ってくれている娘に感謝するとともに癒されていると感じます。

2010.04.18 投稿者:たまママ

2006年10月、10週目の時に掻爬手術を受け、お腹の赤ちゃんは天使になりました。
念願のわが子ができた喜びから一瞬にして絶望に変わった時でした。

7週目の検診では心拍の確認ができたのに、次の検診でまさかの「心拍停止」。
目の前が真っ暗になりました。
事実を受け入れ難く、他の病院にも受診しましたが、結果は同じ。
2日後に手術を受けました。
その後も心の整理がつかず、毎日泣いて過ごしました。
街行く妊婦さんの姿を直視することができず、今頃私もお腹が大きくなっていたはずなのに、今頃私も赤ちゃんを抱いていたはずなのに・・・、と暗闇の中に突き落とされたままでいました。

赤ちゃんを身籠れば普通に生まれてくるものだと思っているところがありました。
でも実はこの世に誕生するってことはすごいことだってこと、奇跡だってことを、この子を通じて気づくことができたのです。
一つの生命を誕生させることの素晴らしさを改めて感じました。

それからもなかなか子どもに恵まれませんでしたが、昨年ようやく出産することができました。
映画『うまれる』の上映を楽しみにしています。

2010.04.17 投稿者:takara-mama

2010年元旦。私たち夫婦は入籍いたしました。
まだ早いとは思いつつも私の母が病を患っていることもあり、すぐにでも孫の顔を見せてあげたいと思っていたのもつかの間、2月に早速陽性反応がありました。
何もかも初めてで不安はあったけど何より嬉しかった。
旦那さんも凄く喜んでくれて、お腹をたくさんなでてくれました。
しかし病院へ行ってもエコーには影一つ映らず、翌週再検査をすることに。
そして一週間後・・・。

ドクターから伝えられた「早期流産の可能性が高い」という言葉に動揺を隠しきれませんでした。
アルコールもたばこも摂取していないのに。激しい運動もしてないのに。
食生活が原因?テレビやパソコンの電磁波が原因?なに?なぜ?・・・
考えても仕方のないことだけど、そんなことばかりが何度も頭の中をループしていました。
出血はもちろん、流れてしまった実感が私に何も無かったのです。
今は、処方された生理を起こすための薬を飲んでいます。

両家の両親に報告するのが何よりつらかった。

でも諦めません。
赤ちゃんは、私がきちんとママになる準備が出来るように待ったをかけてくれたんだ!
そう思っています。必ずまた私のお腹に戻ってきてくれるはず!!
それまでにたくさんの知識を身につけ、万全な状態で妊娠出来るように頑張っていこうと思います。

2010.03.31 投稿者:かわ☆ちゃん

2004年10月出産予定日3日前に第一子を死産しました。

陣痛が来て、病院へと出かけるとき
「今度家に帰ってくるときは3人になっているんだ」と思った記憶が強くあります。
でも娘は小さな小さな骨壷に入って帰ってきました。

「なぜ自分だけ?」「私、何か悪いことした?」と色んなどす黒い感情に取り込まれそうになりました。

ひとからの些細な言動が引っかかって仕方ない時もありました。
家族や友達に支えられて闇の底から浮上できました。

今、2歳になる子供がいます。
子供ができて「自分が一番つらい」と思っていた当時の自分に教えてあげたいです。本当につらかったのは、ただ黙って見守るしかできなかった両親のはず、だよと。

お空にいるお姉ちゃんから教えてもらったこと。
命は自分だけのものではないこと。
生きていること、それ自体奇跡だということ。
自分の人生と自分の大切な人たちの人生を大切にするということ。
感謝を忘れないこと。

映画「うまれる」は老若男女みーんなに見てもらいたいです。

2010.03.21 投稿者:いずみママ

2008年2月、3カ月の時に稽留流産を経験しました。

不妊治療を約2年、人工授精での待望の妊娠でした。

先週には赤ちゃんの心臓がトクトクと動いている映像を目にし、今週はどの位育っているのか
楽しみに病院に向かいましたが、先生の「うーん・・・・・・動いていないね」の言葉に、しばらく
何が起きたのかわからなく、頭は真っ白に。
車の中で待っていた旦那さんの顔を見た瞬間涙はあふれ、号泣しました。

その夜、お風呂に入ってしんと静まっているお腹をなでながら、「私達夫婦のところにきてくれて
ありがとう、また来てね。愛しているよ。」そう伝えて目をつむると、おかっぱ頭の女の子が
今は亡き祖母と一緒に手をつないでいて、祖母が心配ないよと言うかのようににっこり笑って
すーっと光に帰っていった風景が見えました。

2日後、流産手術を行ない赤ちゃんは天使になりました。

何をしていても涙があふれ、とても妊婦さんや赤ちゃんを見ることも、おめでとうと心から言う事も
できず、おめでとうを言えない自分を責めて心が荒れた時期もありました。
でもありがたい事に、旦那さんはもちろん、親や会社の方やいろいろな方の支えがあって、
また前を向く事ができました。


驚く事に、実は身のまわりに流産や死産を経験した方が意外に多かったという事実。


とても明るく竹を割ったような性格で、いつも部署の盛り上げ役の方が、『実は私も1人流産、
1人死産を経験しているのよ』と、涙を溜めながらこっそり私に話をしてくれました。
『空を眺めては涙、家事をしながら涙していたけど、あの子達の分まで楽しく幸せに過ごすんだって、
頑張ってきたのよ。』

私もこの人のように強く優しく生きたい、そう強く思いました。あれから2年、まだこの腕に赤ちゃんを
抱けていませんが、いつか赤ちゃんを授かる事を信じて不妊治療を続けています。

【映画うまれる】が元気に生まれる事を、心から楽しみにしています。

2010.03.11 投稿者:華音のおかあちゃん