うまれる ずっと、いっしょ。|映画『うまれる』

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うまれる ずっと、いっしょ。

看取り・グリーフケア の全体験談

体験を投稿

私は、今年7月1日に最愛なる一人娘19歳を
交通事故で亡くしました。

3歳から、母一人 子一人で一生懸命育ててきました。

中学から父親からの養育費が一切なかったので、
時には夜遅くまで実家に預けて働きました。

大事に大事に育ててきたのに高校卒業した後、
地方へ就職し会社の先輩の車の後部座席に乗って国道の50km規制の所を100km程のスピードを出されて、

一瞬のうちに命が消えてしまいました。

事故の衝撃が大きかったので、
あの時の事が嘘であってくれたら…と未だ何度も思います。

まだ20になる前で、誕生日も成人式も迎えてなかった。

穂乃香が赤ちゃんの時に
9月生まれの石をモチーフにしたベビーリングを購入してあり、

それを20年近くタンスの中にしまい込み、
本人にはサプライズで20歳の誕生日にネックレスにして
首にかけてあげるのが私の夢でした。

成人式は一緒に写真館に行って、
いつも二人で撮ってたプリとは違う装いで正装して写真を撮るのも
また一つの目標としてここまで頑張ってきたのに…

一瞬ですべてを失いました。

穂乃香が亡くなって、約4か月が経ちます。

今まで普通に暮らしていたのに生活も一変してしまって、
出口の見えない暗く長いトンネルを いま一人で歩いて生きてます。

こんな生活から抜け出したくても上に這い上がれなくて、
もがき苦しんでいます。

不安と絶望感で、生きる気力さえ湧きません。
今は、生かされてると言った方がいいでしょう。

子供を亡くした親の悲しみは
立ち直れないほど辛く悲しいものだと、悲嘆感情が高ぶります。

このHPのどこかにも、
Support(支え) Expression(表出) Will(意志)= 『SEW』ソー 縫う
『悲しみを受け入れて新しい人生を縫い合わせる』と記載されていました。

この先の人生、新しい事を縫い合わせて生きていかないとならないんだな…と感じました。

悲しみは癒えないままではあるけど、
ゆっくりと受け入れて現状を変えたいという意思が持てるまでになるのを
今の目標として進んでいきたいと思いました。

2020.05.13 投稿者:穂乃香のお母さん

本日投稿されたfacebookの記事を読んで、自分のことに思いが至りました。メッセージ欄に投稿するのもどうかと思いましたので、こちらに投稿させていただきます。

私の母が乳がんからの再発で亡くなったのは今から22年前の2月23日、私が24歳の時でした。

母は乳がんの告知も、手術を受けることも、一人で聞いて一人で決めてくるような人でした。入院中も家族に「病院なんて来なくていいから、自分のことをやりなさい」と。その言葉に私たち家族は甘え、また板橋区の病院が千葉の自宅から離れていたことも言い訳に、毎日見舞うこともしませんでした。

それでも、父と弟に比べれば私は仕事帰りに週3~4回は母を見舞い、たわいもない会話をして帰る機会は多かったと思います。

転移箇所が広がって余命を医師から告げられたり、本人の痛みを聞いたり、人生で初めて経験することばかりでした。母は、祖父母に心配をかけたくないという気持ちから、母の3人の妹のうち1人に状況を話しただけで、他の人には内緒にしていました。

父は仕事で家にいる時間は少なく、しかも子供の頃から余り話をしない間柄。弟は高校生で、母の状態について何を言っても「仕方ないんじゃない」と言うだけで、強くお願いしない限り病院へも顔を出さない状態でした。

当然、私も相談できる人は限られ、とにかく一人で抱え、一人で不安に思い、一人で母を励まし、今考えると一人で闘っていました。

人を見送った経験のなかった私は、母の病状について何を言われても実感がなく、日々の変化を目の当たりにしても、どれぐらい最期の時が迫っているのか漠然とした想像もできませんでした。当時の私は、本気で母が回復すると信じ、心の底から母を励ましていました。ところが。

ある夜「毎日痛くて眠れないけど、なんか今夜は眠れそう」と言うので、「良かったね。じゃあ、今夜はゆっくりおやすみなさい」と眠りを促しました。母が寝息をたて始めた途端、点滴の様子を見ていた看護師さんが「多分、もう目を覚まされないと思います」と言われました。

もうその頃には祖母や叔母たちも状況を知って病院に来ていましたので、大慌てで母の頬を叩いて起こそうとしました。

相部屋で意識がなくなった母は、普段は倉庫として使っている部屋に移されました。個室は空かないの?最期をこんな部屋で迎えさせるの?悲しみと恐怖の中で行動したくても、みんな諦めモードで、もう瞼を閉じる力もない母をただただ見守っていました。約1週間の昏睡の後、母は亡くなりました。

母の意向に沿ってぎりぎりまで病状を伏せていた祖父母と叔母達は、知らせてもらえなかったこと、自分達できちんと看病してやれなかったことに憤り、その矛先を私に向けました。何故教えてくれなかった。自分たちの方が、ちゃんと面倒見れたのに。がんなんてどうせ死んじゃうのに、治るって信じて隠してたなんて、お姉さんもバカだよね。などなど。

彼らにしてみれば突然のことで、私を攻撃することでしか悲しみや怒りや後悔を処理できなかったんだと、今なら分かります。当時の私にはまだ無理で、ひたすら耐えていましたが。

その後、お葬式も終わり、仕事にも復帰し、母はいなくなったけれど日常生活に戻るんだと思っていました。違いました。母の回復を信じ、無力ながら全力で母に寄り添おうとした自分は、本当に治ると思い込んでいたようです。「頑張れ!大丈夫!必ず治る!」という気持ちの対象が急にいなくなって、どうすればいいのか分からなくなってしまいました。

最初は何事もなかったように会社へ行けていた自分。会社にいる間は元気に振る舞える自分。ところが、家に帰ると思考が止まったかのように何もできない自分。うちの家族は母を真ん中にして各々が母とだけ繋がっているような感じだったので、核がいなくなったら顔を合わせても挨拶以上の会話はありませんでした。

一人でいても、ただぼーっとするだけの毎日。もともと夜更かしだった私はどんどん眠れなくなり、朝起きられなくなり、自分をコントロールすることができなくなりました。

午後出勤と欠勤を繰り返す私は、5月半ばに上司から呼ばれました。一体どうなってるんだ?という問いに対し、母が亡くなって3ヶ月近くになるのに自分の気持ちの整理ができないと正直に話したところ「いい加減にしろ。親なんて、誰だって死ぬんだ!」と一括されました。

その上司の御両親は御健在でしたので「実際に亡くしてみないと分からないでしょう?!」と言いたかったのですが、さすがにそれは控えました。

結局、上司との話は平行線で「そんなんだったら、これ以上俺の下にいてもらっちゃ困る」と言われたので「それは、辞めろってことですか?」と聞いたところ「そうは言ってないだろ。ただ、いつまでもそんな状態なら、俺の下にいてもらっちゃ困るって言ってんだよ」と。

それが難しくて、もうどうしていいか分からなかった私は「自分でもどうしたらいいのか分からない状態なので、6月末で仕事を辞めさせてください」と言いましたが「6末?ボーナス持って辞めるつもりか。5月末でいいよ」と言い放たれ、結局5月末で退職しました。(ちなみに、ボーナスについては、社長が退職金として渡してくれました。)

これを書きながら、あれから22年も経って、普通に子育てをしている私なのに、未だに整理しきれていないと感じています。

話しは前後しますが、がんが転移する前の最初の入院の時、ずっと母に聞いてみたかったことを口にしたことがあります。

「お母さん、私より弟の方がかわいかったんでしょ?」即座に母は「当たり前じゃない。〇〇の方がかわいいに決まってるでしょ。あんたなんて、あたしにそっくりで、自分の嫌なところばっかりあんたに見せつけられて、少しもかわいくなかったわよ」「そっか.....」

当時は手術後の静養中でしたし、その後も再発を恐れての定期検診、そして再発・逝去という流れでしたので、この会話については掘り下げることもなくそのままになってしまいました。

後々、この会話が自分の胸に突き刺さっていることに気づきましたが、時既に遅し。母の死後、叔母たちから聞かされた話では、幼児の私が熱を出しても、ブランデーグラスを回しながら「あれは旦那の子供。あたしの子供はこっち(弟)」と言っていたとか、そんな話ばかりです。

もちろん病院や食事などはやってくれていて、ネグレクトではありません。とはいえ、母は私が嫌いだったんだろうか?という疑念は、46歳になった今も時々頭をよぎります。

そして、私の場合、自分が愛されていたかということに自信がなくなると、自分が子供をちゃんと愛せているのかについても自信がなくなるみたいです。正直、自分の子育ては不安です。

母の言葉を思い出してツラい時は、とりあえず「お母さんは、気持ち的には私がかわいくなかったかもしれないけど、とにかく成人するまでちゃんと育ててくれたんだから、憎まれて疎まれていたわけではないはず。きっと大丈夫」と自分に言い聞かせてしのいでいます。

気持ちの整理がついていないので、文章もまとまりがなくなってしまいました。申しわけありません。

実際のグリーフ・プロセスがどんなものなのか全く知識がありませんが、その工程が大事なんだろうなということは何となく感じます。そう感じていたので「生まれる ずっと、いっしょ」を観に行きたかったのですが、子供が体調を崩したりしてかないませんでした。いつか、ぜひ観せていただきたいと思っています。

いろいろなことを再度考え、まとまらなくても吐き出すきっかけをくださった今日の投稿に感謝します。そして、お父様が安らかに眠られること、お母様がたくさんの思いを抱えながらも御自分の人生を力強く歩んでいってくださること、そして、牛山さんの御家族の御多幸をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

最後に。詩草ちゃんにまつわるエピソード、いつも楽しみにしています!素敵なお嬢さんですね。

2015.04.01 投稿者:ひびほま/兵庫県

看取りなのか介護なのか分かりませんが、こちらに書かせて頂きます。

家と病院での介護を繰り返し、昨年12月、私の祖母は亡くなりました。
父は仕事であまり家にいなく、私たち兄妹も結婚し家を出ていたので、
母が主に面倒をみていました。

祖母も気が強く、まだ話しが出来る頃、母に対してキツイ事を言ったりしていました。
母も文句を言うこともありました。それでも出来ることを全てやっていました。
私には母の話しを聞くこと、祖母の様子を見ることくらいしか出来ませんでした。
何もできませんでした。

祖母が固形物を食べることが難しくなり、栄養のみで生活するようになって約2年。
その間何度も危険な状態もありましたが、その度に持ちこたえてきました。
そして昨年末も入院していましたが、お正月には一時退院する予定でいました。
家族みんな、もしかしたら家で看取ることになるかもしれないと思いながら。

12月23日。父からの電話でした。もう長くないかもしれないと。
外出していたので用事を済ませ病院に向かおうとしたところで再び父から電話が。
涙声で言っている事は分かりませんが、言いたいことは分かりました…。
心の準備はしていたつもりでしたけど「お正月には退院」とどこかで安心していました。

葬儀が終わった後、父が母に言っていた言葉が忘れられません。
「ありがとう」
ずっと言いたかったんだと思いました。

今は2人で母の好きなお花を見に、いろんな所に出かけています。
今まであまり時間が取れなかった分、そういう時間を大切にして欲しいと思います。

そして、長い間寝てばかりで大変だった祖母も、今はゆっくりと休んで欲しいです。
私たちをいつも見守っていて欲しいです。

長文、乱筆乱文、失礼致します。

2013.08.06 投稿者:はる

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2013.07.11 投稿者:※※※※※